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国見山が高屋山上陵であること

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○「肝付町三岳まいり」が復活したのは、大変喜ばしいことではある。しかし、幾ら「肝付町三岳まいり」を復活させたところで、「肝付町三岳まいり」が何者であるかを明らかにしないでは、画竜点睛を欠くと言うしかない。肝心の魂が失われたままだからである。

○それに、「肝付町三岳まいり」を復活させたのは肝付町観光協会であると言う。それなら、尚更、「肝付町三岳まいり」がどういうものであるかを明らかにすべきだろう。「肝付町三岳まいり」はとんでもない代物である。それを肝付町観光協会が知らないでは、何とも勿体無い話である。

○江戸時代の国学者に白尾國柱が居る。白尾國柱は神代三山陵を探求し続けた学者として知られる。その研究成果が「麑藩名勝考」として、寛政七年(1785年)に刊行されている。白尾國柱は「麑藩名勝考」の中で、国見山が高屋山上陵であるとしている。

○もともと、国見山は高屋山と呼び称されていた。もちろん、内之浦からの呼称である。それは肝属郡肝付町北方1500に、高屋神社が鎮座ましますことからも明らかである。

○それに対して、国見山の呼称は高山側からのものだとするしかない。肝属郡肝付町後田には、国見小学校や中学校などが存在する。国見山の名を採用して校名となったものであろう。

●ちなみに、白尾國柱が「麑藩名勝考」で神代三山陵の比定地としているのは、次の通りである。
  初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県薩摩川内市の新田神社
  二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山
  三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵

●それに対して、現在、宮内庁が神代三山陵比定地としているのは、以下の通りである。
  初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県薩摩川内市の新田神社
  二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県霧島市溝辺町麓の高屋山陵
  三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵

●白尾國柱の神代三山陵の比定は寛政七年(1785年)なのに対し、現在の神代三山陵比定地が比定されたのは明治七年(1874年)のことである。私たちは現在の神代三山陵比定地が本物だと信じて疑わない。しかし、それはとんでもない偽物に過ぎない。まだ、白尾國柱の神代三山陵の比定地の方が真実に近い。

●いまどき、神代三山陵の研究をする人は誰も居ない。したがって、明治七年(1874年)の、極めて杜撰な選定が神代三山陵比定地として、現在まかり通っている。しかし、白尾國柱の神代三山陵の研究を継承すれば、真実の神代三山陵が見えて来る。それは次のように案内される。
  初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県肝属町内之浦甫与志岳(叶岳)
  二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山
  三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵

◎『国見山が高屋山上陵であること』とは、そういうことを意味する。つまり、国見山は神代三山陵の一つであることが判る。凄まじく恐ろしい話なのである。

◎肝付町の方であれば、吾平山陵が何処にあるかは、誰でもご存じである。すぐ隣町の吾平町上名に存在するのが吾平山陵なのであるから。その割には、『国見山が高屋山上陵であること』をご存じ無いのが残念でならない。

◎本ブログでは、そういうことを丹念に研究している。神代三山陵については、以下のブログを参照されたい。
  ・書庫「神代三山陵の研究」:16個のブログ
  https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/144322.html?m=l&p=1

◎最終的には、「肝付町三岳まいり」は神代三山陵巡りであったことが判る。そういうことをここでは話したい。せっかく、肝付町観光協会が復活なさった「肝付町三岳まいり」である。大事にしたい。

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