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卑弥呼の正体:其の十六

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○最初に吐噶喇列島を訪れたのは、2009年7月4日のことであった。それ以前に硫黄島を訪問し、硫黄島が日本修験道の発祥の地であることを確認していた。だから、硫黄島から先、どのように仏教が伝来したかを知るための旅行であった。非常に興奮した様子が以下のブログからよくうかがえる。
  ・書庫「吐火羅の旅」:ブログ『吐火羅列島を旅する』
  https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/28336433.html

○その三年後の2012年3月12日に、初めて中国浙江省舟山群島の島、普陀山へ参詣した。昼頃に、普陀山の百歩沙から洛迦山を遠望した時の感動が忘れられない。その話は以下に書いている。
  ・書庫「海天佛国:普陀山」:ブログ『百歩沙』
  https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/36375280.html
  ・書庫「海天佛国:普陀山」:ブログ『洛迦山と小宝島』
  https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/36383265.html

○上記のブログは、普陀山参詣の後に書いたものである。日付を見ると、2012年3月30日と4月1日になっている。この中に、すでに「補陀落渡海」の言葉が出ている。初めて中国浙江省舟山群島の島、普陀山へ参詣した際、気付いたのが、この補陀落渡海であった。

○補陀落渡海がどんなものか。意外と知られていない気がする。ウィキペディアフリー百科事典が載せる補陀落渡海は、次の通り。
      補陀落渡海
   補陀落渡海(ふだらくとかい)は、日本の中世において行われた、捨身行の形態である。自発的
  な捨身行であるとは限らず、強制されたものもあった。
  【概要】
   この行為の基本的な形態は、南方に臨む海岸に渡海船と呼ばれる小型の木造船を浮かべて行者が
  乗り込み、そのまま沖に出るというものである。その後、伴走船が沖まで曳航し、綱を切って見送
  る。場合によってはさらに108の石を身体に巻き付けて、行者の生還を防止する。ただし江戸時代に
  は、既に死んでいる人物の遺体(補陀洛山寺の住職の事例が知られている)を渡海船に乗せて水葬
  で葬るという形に変化する。
   最も有名なものは紀伊(和歌山県)の那智勝浦における補陀落渡海で、『熊野年代記』によると、
  868年から1722年の間に20回実施されたという。この他、足摺岬、室戸岬、那珂湊などでも補陀落渡
  海が行われたとの記録がある。
   熊野那智での渡海の場合は、原則として補陀洛山寺の住職が渡海行の主体であったが、例外とし
  て『吾妻鏡』天福元年(1233年)5月27日の条に、下河辺六郎行秀という元武士が補陀洛山で「智
  定房」と号し渡海に臨んだと記されている。
   補陀落渡海についてはルイス・フロイスも著作中で触れている。
  【関連作品】
   補陀落渡海を取り上げた有名な文学作品として、井上靖の短篇「補陀洛渡海記」がある。
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%9C%E9%99%80%E8%90%BD%E6%B8%A1%E6%B5%B7

○これまで、補陀落渡海は日本オリジナルの宗教行事として認識されている。しかし、どう考えても、これだけのものが、日本オリジナルの宗教行事だと考えること自体に無理がある。中国には、そういうものが存在しないのであろうか。そう思って中国浙江省舟山群島の島、普陀山へ参詣した。

○何故なら、普陀山は中国観音信仰の聖地なのだから。中国に補陀落渡海が存在するなら、当然、それは普陀山以外に考えられない。そう考えるのが自然である。

○面白いことに、中国では、完全に補陀落渡海を失っている。ただ、補陀落渡海そのものは日常茶飯事のことであって、毎日、大勢の人が補陀落渡海している。しかし、人々はそれを補陀落渡海とはまるで認識していない。それが現状である。


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