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卑弥呼の正体:其の四十六

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○白尾國柱の神代三山陵の研究を継承して、神代三山陵を追い求めると、真実の神代三山陵が見えてくる。それは次のように案内される。
  初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県肝属町内之浦甫与志岳(叶岳)
  二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山
  三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵

○判るように、真実の神代三山陵と現在の神代三山陵比定地とは、まるで違う。ちなみに、現在の神代三山陵比定地は、次のようになっている。
  初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県薩摩川内市の新田神社
  二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県霧島市溝辺町麓の高屋山陵
  三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵

○真実の神代三山陵が真実であることは、神代三山陵の先坣僑位がそれを証明してくれる。神代三山陵の先坣僑位とは、次のものを指す。
  初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=奈良県吉野郡天川村山上ケ岳・弥山
  二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=和歌山県伊都郡高野町高野山
  三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=和歌山県田辺市本宮町本宮

○これまで、そういう話を繰り返しているけれども、今どき、神代三山陵の話をして、何になるかと思われるかも知れない。しかし、神代三山陵が存在するところが天皇家の故郷である。「古事記」や「日本書紀」が神代三山陵を記録するのも、実は天皇家の故郷が神代三山陵だと言っていることにある。なかなか人はそういうふうに「古事記」や「日本書紀」を読まないけれども。

○その点、寛政七年(1785年)刊行の「麑藩名勝考」は凄い。白尾國柱は「麑藩名勝考」の序文でそのことについて、詳しく触れている。そして、白尾國柱が「麑藩名勝考」をものしたのも、神代三山陵の探求にあると明言している。

○実際、真実の神代三山陵を検証すると、神代三山陵の所在地が狗奴国であることに驚く。つまり、天皇家の故郷は邪馬台国ではなくて、狗奴国だと言うことになるからである。誰もが邪馬台国の続きが山と国だと思っている。

●日本の始まりが日向国であることを記録しているのが、「古事記」であり「日本書紀」である。そこでは、神代三代の天孫降臨神話や海幸山幸神話が語られ、神武東征が紹介されている。私たちは、そういうものが日向神話だと信じている。

●しかし、三世紀に書かれた「魏志倭人伝」には、日向国名は無く、南九州三国として、邪馬台国・狗奴国・投馬国が案内されている。後世、日向国は三国に分断されるけれども、もともと日向国は大きく三つの要素から成り立っていた。だから、三つに分けられるのが自然だったと考えるのが良いのではないか。

●そういう後世の国名を当て嵌めると、次のようになる。
  ・邪馬台国=薩摩国
  ・狗奴国=大隅国
  ・投馬国=日向国

●後世、日向国名は現在の宮崎県のものとなっている。だから、宮崎県は神話の国とか、神話の故郷として売り出している。しかし、もともとの日向国は宮崎県と鹿児島県を合わせた広さであって、宮崎県が神話の国であるとか神話の故郷と言うのには、語弊がある。

●もともとの日向国の中心は宮崎県地域には無い。日向国中心は、あくまで薩摩半島にあった。だから、大隅半島でもない。つまり、邪馬台国が日向国の中心であったと思われる。その証拠に邪馬台国の主交易港は坊津である。日本三津の筆頭が坊津だと言うことは、そういうことである。

◎そういうふうに考えると、狗奴国が天皇家の故郷であることにも、疑問を抱かざるを得ない。日本の歴史を振り返る限り、邪馬台国から大和国が誕生したことは間違いないと思われるからである。どう考えても、邪馬台国と大和国が無関係と言うことはあり得ない。

◎それなら「魏志倭人伝」か「古事記」「日本書紀」の記録に問題があるのではないか。そう考えるのが自然である。しかし、「魏志倭人伝」は外国の史書であって、故意に歴史認識を曲げようとすることは考え難い。

◎そうであるなあら、当然、「古事記」や「日本書紀」の記録の方を疑ってしまう。狗奴国に神代三山陵が存在する以上、天皇家の故郷は、狗奴国だとするしかない。しかし、大和国は、どう考えても邪馬台国の名を引き継いだものと考えるしかない。

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