○鹿児島県肝属郡肝付町では、毎年、肝付町三岳参りが開催されている。今年、2017年は5月21日(日)に盛大に開催された。その時の様子は、以下のブログ等に書いている。
・書庫「肝属町の三岳参り」:ブログ『平成29年度:肝付町三岳まいり』
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/40946098.html
○2016年度も肝付町三岳参りには、参加させていただいた。
・書庫「肝属町の三岳参り」:ブログ『第2回肝付町三岳まいり』
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/40372910.html
○旧内之浦町と内之浦町観光協会が建てた三岳参りの案内板が甫与志岳の登山口に建っている。
・書庫「肝属町の三岳参り」:ブログ『肝付町の三岳参り』
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/40389183.html
○上記案内板が案内する『内之浦三岳参り』の内容は、次の通り。
三岳参り
江戸時代から肝属地方に伝わる岳参り(タケメイ)で、
三岳参りは肝属山地の「国見岳」「黒尊岳」「甫与志岳」を縦走する
ロマンを秘めた登山大会。
春たけなわの4月3日(シンガサニッ)が例祭日で、
地元高山町、内之浦町を始め遠くは大崎町、串良町、東串良町、吾平町などの
老若男女が夜中立ちして群詣したという。
三岳の神様に、大漁、豊作、家内安全、無病息災を祈願する山岳信仰が本旨だが、
徒歩が唯一の交通手段だった頃の、年に1回のロマンを求める社交の場でもあったようだ。
○寛政七年(1785年)に刊行された白尾國柱の「麑藩名勝考」にも、しっかり『内之浦三岳参り』は記録されている。
黒尊嶽(同郷北方村國見嶽の午未方一里に在り)
土俗相伝て、火々出見尊遊行玉ひし所也と云ふ、是に一神石上屹立す。高壹間三尺余、
囲壹間四尺、街道より南に丁る、奇しき巌にて、石の下に火々出見尊を齋ひ祭る。
毎年四月三日を以て祭事あり。諸人群詣するの例とす。凡そ國見・母養子・黒尊を
内浦の三嶽と称ふ。
○白尾國柱の「麑藩名勝考」に拠れば、『内浦の三嶽』とは『國見・母養子・黒尊』を指すと言う。『毎年四月三日を以て祭事あり』と言うのだから、『内之浦三岳参り』は例年、旧暦四月三日に催されたと言う。『祭事』と言うのだから、神社の行事であることは間違いない。
○現在の『肝付町の三岳参り』は、その『内之浦三岳参り』を復活させたものとなっている。主催者は肝付町観光協会となっている。今回は、この『肝付町の三岳参り』について、考えてみたい。
●『肝付町の三岳参り』のパンフレットをご覧いただければ判ることだが、もともと、『肝付町10周年記念「三岳まいり」企画』として計画されたものである。だから、いわゆる『町おこし』行事の一つであったと思われる。
●ただ、『内之浦三岳参り』は江戸時代から続く伝統行事であって、多くの老郷民の心中に懐かしい思い出として残存していた。それを復活させようと言うのだから、何とも素晴らしい発想である。
●ただ、『内之浦三岳参り』は、三岳参りと言うくらいだから、もともと宗教行事であったことは間違いない。そういう宗教色を払拭して再興しようと言うのだから、大変である。
●『内之浦三岳参り』である以上、それは内之浦の行事であった。そういう内之浦で『内之浦三岳参り』を催行できる神社仏閣が多くあるわけではない。おそらく、それは正一位高屋大明神のものであったと思われる。白尾國柱の「麑藩名勝考」が案内する正一位高屋大明神は、次の通り。
正一位高屋大明神
在山陵之麓三里許、此地隷同郷南方村
奉祀即彦火々出見尊(神位坐像、高一尺三寸)
祔祀瓊々杵尊・葺不合尊。
此神廟は景行天皇の御艸建也。鳥居に正一位高屋大明神の扁額を掲ぐ(卜部兼敬書也)。例祭九月
九日、同月十日、此日流鏑馬あり。年中祭典凡そ二十七度、神社撰集曰、中御門天皇享保二年丁酉六
月二十六日、授高屋神正一位。又云宝暦十三年辛未十月二十八日夜亥刻、高屋神廟火たり。今宵戌下
刻、光明一道ありて、國見山陵に飛行。其光赫曜として山谷に射映る。又曰、高屋祠炎上、半時ばか
りの前に火気雲衢に衝入、すさまじく見へわたりけることあり。皆郷村男女親しく見る所、今に至り
て歎称をなして敬畏せり。
●現在、国見山と称している山が高屋山であり、白尾國柱はそこが高屋山上陵だとする。国見山は旧高山町側から見た命名であり、内之浦側からは高屋山と呼び称した。もちろん、それは、正一位高屋大明神の奥宮が高屋山であり、そこが彦火火出見尊の御陵である高屋山上陵だからである。
◎『内之浦三岳参り』を復活させた肝付町観光協会の功績は大きいと言えよう。ただ、『内之浦三岳参り』が、本来、どういうものであったかを明らかにしないのでは、画竜点睛を欠くとするしかない。
◎加えて、『肝付町の三岳参り』が本来、『内之浦三岳参り』であったことにも留意する必要があろう。だから、それが正一位高屋大明神の祭事であったことが推測される。
◎中国には、清明と言う伝統行事が存在する。
清明
清明(せいめい)は、二十四節気の第5。三月節(旧暦2月後半から3月前半)。
現在広まっている定気法では太陽黄経が15度のときで4月5日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、
天文学ではその瞬間とする。恒気法では冬至から7/24年(約106.53日)後で4月7日ごろ。
期間としての意味もあり、この日から、次の節気の穀雨前日までである。
【風俗】
中国における清明節は祖先の墓を参り、草むしりをして墓を掃除する日であり、「掃墓節」とも
呼ばれた。日本におけるお盆に当たる年中行事である。また、春を迎えて郊外を散策する日であり、
「踏青節」とも呼ばれた。『白蛇伝』で許仙と白娘子が出会ったのも清明節でにぎわう杭州の郊外
であった。また清明節前に摘んだ茶葉を「明前茶」、清明から穀雨までの茶葉を「雨前茶」、穀雨
以後の茶葉を「雨後茶」という。中国で緑茶は清明節に近い時期に摘むほど、香りと甘みがあり、
高級とされている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%98%8E
◎『内之浦三岳参り』が旧暦4月3日の宗教行事であったことにも、十分留意しなくてはなるまい。もともと、清明節は祖霊崇拝の宗教行事でもあったのである。そういうことを考えると、もともとの『内之浦三岳参り』がどういうものであったかが見えて来る。
◎こういうことを、江戸時代の白尾國柱が「麑藩名勝考」に記録していることに驚く。白尾國柱は日向国中を歩き回り、神代三山陵の探求を繰り返している。白尾國柱が言うように、高屋山が高屋山陵であることは間違いない。
◎その証拠に、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵である吾平山陵もすぐ近くに存在する。彦火火出見尊の息子が彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊である。
◎それなら、彦火火出見尊の父である彦火瓊々杵尊の御陵、可愛山陵だって近在するはずだろう。白尾國柱が言うように、彦火瓊々杵尊の御陵である可愛山陵が鹿児島県薩摩川内市の新田神社だとするのには、相当無理がある。
◎高屋山を高屋山陵とすること自体には、まるで抵抗が無かったが、彦火瓊々杵尊の御陵である可愛山陵を薩摩川内市の新田神社以外に比定することは、白尾國柱には到底できない。当時、それ程、新田神社の権勢は大きかったのである。
◎ただ、常識的に考えれば、この辺りで最も高く尊崇される山が可愛山陵だと言うことは間違いあるまい。いわゆる肝属山地の最高峰は甫与志岳(966叩砲箸覆襦その甫与志岳を可愛山陵だと考えることは極めて自然な話である。
◎そう考えると、自然と真実の神代三山陵が見えて来る。
初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県肝属町内之浦甫与志岳(叶岳)
二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山
三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵
◎おそらく、白尾國柱の考えも同様だったのではないか。ただ、彼には時代の制約があった。こういうふうな発言自体が白尾國柱には許されなかった。しかし、そういう抵抗勢力が存在することは現代も同じである。現代の抵抗勢力は宮内庁で、なかなか手強い。