○神代三山陵には、先坣僑位が存在する。そんな恐ろしい話を繰り返している。具体的な神代三山陵の先坣僑位は、次の通りとなる。
初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=奈良県吉野郡吉野町吉野山
二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=和歌山県伊都郡高野町高野山
三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=和歌山県田辺市本宮町本宮
○さらに、2004年7月7日には、神代三山陵の先坣僑位がそっくりそのまま「紀伊山地の霊場と参詣道」として、世界文化遺産に登録された。このこと自体は非常に嬉しし、有り難い出来事なのだが、「紀伊山地の霊場と参詣道」と言うへんちくりんなネーミングは如何なものか。
○「紀伊山地の霊場と参詣道」と言う言葉自体が、「紀伊山地の霊場と参詣道」がどういうところであり、どういうものであるかを、まるで理解していないと言えよう。つまり、「紀伊山地の霊場と参詣道」の由緒来歴をまるで理解していないと言えよう。今回は、そういう話をしたい。
○まずは、世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」がどんなものであるかを、見ておきたい。ウィキペディアフリー百科事典が載せる「紀伊山地の霊場と参詣道」は、次の通り。
紀伊山地の霊場と参詣道
紀伊山地の霊場と参詣道(きいさんちのれいじょうとさんけいみち)は、和歌山県・奈良県・三
重県にまたがる3つの霊場(吉野・大峰、熊野三山、高野山)と参詣道(熊野参詣道、大峯奥駈道、
高野山町石道)を登録対象とする世界遺産(文化遺産)。2004年7月7日に登録され、2016年10月26
日に登録範囲の「軽微な変更」がなされた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E4%BC%8A%E5%B1%B1%E5%9C%B0%E3%81%AE%E9%9C%8A%E5%A0%B4%E3%81%A8%E5%8F%82%E8%A9%A3%E9%81%93
○文化庁に「文化遺産オンライン」と言うサイトがあって、日本の文化遺産について案内している。
文化遺産オンラインは、文化庁が運営する我が国の文化遺産についての電子情報広場(ポータル
サイト)です。 全国の博物館・美術館等から提供された作品や国宝・重要文化財など、さまざまな
情報をご覧いただけます。 検索等の詳しい操作方法については「ヘルプ」をご覧ください。
○その「文化遺産オンライン」が載せる『紀伊山地の霊場と参詣道』は、次の通り。
紀伊山地は本州最南端、太平洋に張り出す紀伊半島に位置し、標高1,000m~2,000m級の山脈が縦
横に走り、年間3,000mmを超える豊かな降水量が深い森林をはぐくむ山岳地帯です。
紀伊山地は太古の昔から自然信仰の精神を育んだ地で、6世紀に仏教が伝来した以降、紀伊山地は
真言密教をはじめとする山岳修行の場となりました。中でも、山岳修行により超自然的能力を獲得
することを目的として10世紀中ごろから11世紀代に成立した修験道は、特に大峰山系の山岳地帯を
中心的な修行の場としていました。また、9~10世紀に広く流布した「神仏習合」思想(日本古来
の神々は仏教の諸尊が姿を変えて現れたものとする日本固有の思想)の聖地としても信仰を集めて
いました。
さらに、10~11世紀頃の日本では「末法思想」(仏法が衰え世も末になるという思想)が流行し、
死後に阿弥陀仏の居所である極楽浄土に往生することを願う「浄土宗」という仏教の教えが貴族や庶
民の間に広まりました。これに伴って、都の南方に広がる紀伊山地には仏教諸尊の浄土があると信
じられるようになり、この地の霊場としての性質がいっそう強まりました。この地方の神聖性がこ
とさら重要視されるようになった背景には、深い山々が南の海に迫るという独特の地形や、両者が
織り成す対照的な景観構成などが大きく影響していたものと考えられています。
このような特有の地形及び気候、植生などの自然環境に根ざして育まれた多様な信仰の形態を背
景として、「吉野・大峯」、「熊野三山」、「高野山」と呼ばれる顕著な三つの霊場とそれらを結ぶ
「参詣道」が形成されました。
http://bunka.nii.ac.jp/special_content/hlinkA
○別に、和歌山県のHPには、「和歌山県世界遺産協議会(事務局:和歌山県世界遺産センター)」が載せる『紀伊山地の霊場と参詣道の概要』がある。
紀伊山地の霊場と参詣道の概要
紀伊山地は太平洋に張り出した紀伊半島の大部分を指し、標高1,000~2,000m級の山脈が東西あ
るいは南北に走り、年間3,000mmを超える豊かな雨水が深い森林を育む山岳地帯である。
紀伊山地は、神話の時代から神々が鎮まる特別な地域と考えられていた。
また、仏教も深い森林に覆われたこれらの山々を阿弥陀仏や観音菩薩の「浄土」に見立て、仏が
持つような能力を習得するための修行の場とした。その結果、 紀伊山地には、起源や内容を異にす
る「熊野三山」、「高野山」、「吉野・大峯」の三つの霊場とそこに至る「参詣道」が生まれ、都
をはじめ各地から多くの 人々の訪れる所となり、日本の宗教・文化の発展と交流に大きな影響を及
ぼした。
『紀伊山地の霊場と参詣道』は、三重、奈良、和歌山の三県にまたがる「紀伊山地の自然」がな
ければ成立しなかった「霊場」と「参詣道」及びそれらを取り巻く「文化的景観」が主役であり、
世界でも類を見ない資産として価値が高い。
「熊野三山」、「高野山」、「吉野・大峯」は、古代以来、自然崇拝に根ざした神道、中国から
伝来し我が国で独自の展開を見せた仏教、その両者が結びついた 修験道など多様な信仰の形態を育
んだ神仏の霊場であり、熊野参詣道、高野山町石道、大峯奥駈道などの参詣道とともに広範囲にわ
たって極めて良好に遺存して いる比類のない事例である。
また、それらが今も連綿と民衆の中に息づいている点においても極めて貴重な資産である。
http://www.sekaiisan-wakayama.jp/know/gaiyou.html
○おおよそ、こういうところが世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の概要と言えるのではないか。つまり、「熊野三山」、「高野山」、「吉野・大峯」の三つの霊場と、そこに至る「参詣道」が世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の概念であり、内実だと言えよう。
●「紀伊山地の霊場と参詣道」が、もともと、まとまった一つの宗教形態であることは、おぼろげながら意識されていたことである。ただ、それが何であるかは、はっきりしない。それは熊野と高野山と吉野山がまるで別の宗教概念であったことにも起因しよう。
●こうやって、『熊野と高野山と吉野山』とまとめること自体が、世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」に基づく概念である。あくまで中心は熊野にある。だから和歌山県があれ程力を入れているのだろう。
●しかし、世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の起源を辿ると、『熊野と高野山と吉野山』とまとめること自体に無理がある。世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」がもともと神代三山陵の先坣僑位である以上、それは『吉野山・高野山・熊野』と並べるのが常識だろう。
●最初に、
世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」と言うへんちくりんなネーミング
と書いた。『熊野と高野山と吉野山』であるのならば、それで良いのかも知れないが、『吉野山・高野山・熊野』と言う概念ではそうは行かない。世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」は、本来、『吉野山・高野山・熊野』なのであって、『熊野と高野山と吉野山』ではないのである。
◎世界遺産は、文化庁の目玉なのではないか。それがこういう具合であっては、何とも心配な話である。日本の文化庁が日本文化をまともに認識できない。それでは日本の文化行政は、到底、覚束ない。
◎本ブログでは日向国の万葉学を標榜している。日本創世神話が日向神話であることにほとんどの人が注目しない。何故、日本は日向国から始まったのか。それを理解できないから、文化庁のような齟齬が生じる。
◎本当は、文化庁が率先して行うべき作業が日向神話の解明なのである。何しろ、日向神話は日本創世神話なのだから。そうすれば、おそらく世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」などと言う概念は生じなかった。世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」に於ける文化庁の責任は大きい。
◎『吉野山・高野山・熊野』が神代三山陵の先坣僑位であることは間違いない。その発端は「日本書紀」巻第三十の持統天皇紀であった。持統天皇は、持統三年から持統十一年の九年間のあいだに、三十一回もの吉野詣でを繰り返している。これは尋常な数字ではない。持統天皇にとって、吉野山は何なのか。
◎詳しい話は以下のブログに書いている。
・書庫「吉野山の正体」:40個のブログ
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/389714.html?m=l&p=1
◎結果、『吉野山・高野山・熊野』が神代三山陵の先坣僑位であることを理解した。ブログ『吉野山の正体』を書き始めたのは、2008年2月のことだったが、最終的に『吉野山・高野山・熊野』が神代三山陵の先坣僑位であることを確認したのは、2011年5月のことであった。そのことについては、以下のブログに詳しい。
・書庫「奥駈道を歩く(吉野から弥山まで)」:ブログ『吉野山の正体』
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/34944422.html
・書庫「奥駈道を歩く(吉野から弥山まで)」:ブログ『高野山が高屋山陵であること』
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/34949580.html
・書庫「奥駈道を歩く(吉野から弥山まで)」:ブログ『吾平山陵の正体』
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/34955902.html
・書庫「奥駈道を歩く(吉野から弥山まで)」:ブログ『吾平山陵の正体◆
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/34962642.html
◎神代三山陵の先坣僑位が世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」となっている。それ程、『熊野と高野山と吉野山』の文化的価値は高い。それが文化庁の見解であるらしい。
◎それなら、神代三山陵の文化的価値はどれ程のものだろう。真実の神代三山陵の文化的価値が神代三山陵の先坣僑位の文化的価値を下回るとは思えない。真実の神代三山陵である、
初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県肝属町内之浦甫与志岳(叶岳)
二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山
三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵
がどんなに凄いものであるかを、誰もご存じ無い。
◎現在の神代三山陵比定地をもう一回見直すこと。なかなか大変な作業である。相手は宮内庁である。神代三山陵の先坣僑位を確認すること。これまた大変な作業である。相手は文化庁である。抵抗勢力が宮内庁であり文化庁と言うのも、また面白い。本当は、率先して真実を追求すべきお役所が逆に真実を曲げる側に回っている。
◎お役所仕事と言うけれども、従来の権威権勢に寄りかかって、真実を見ようともしない姿勢にはがっかりさせられる。だからこうやって、執念く発言を繰り返すわけである。