○前回、「魏志倭人伝」の主題について、述べるつもりであった。最初に「三国志」に於ける「魏志倭人伝」の存在や意義について言及したところ、それだけで字数が尽きてしまった。改めて、ここで「魏志倭人伝」の主題について考えることとしたい。
○繰り返しになるけれども、「魏志倭人伝」の主題は倭国三十国の案内にある。「魏志倭人伝」が他に述べたいことがあるわけが無いからである。そういう意味で、「魏志倭人伝」の主題は、次のように案内される。
【渡海三国】
・狗邪韓国・対馬国・壱岐国
【北九州四国】
・末廬国・伊都国・奴国・不弥国
【中九州二十国】
・斯馬国・巳百支国・伊邪国・都支国・邇奴国・好古都国・不呼国
・姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国・鬼国・為吾国・
・鬼奴国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・烏奴国・(奴国)
【南九州三国】
・投馬国・邪馬台国・狗奴国
○これを導き出すのに、必要な「魏志倭人伝」の文章は、上段556字となる。その全文は次の通り。
【上段】
倭人在帶方東南大海之中、依山島為國邑。舊百餘國。漢時有朝見者。今使譯所通三十國。從郡至倭、循海岸水行、曆韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里、始度一海、千餘里、至對海國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百餘里、土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸,無良田、食海物自活、乖船南北市糴。又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里、多竹木叢林、有三千許家、差有田地、耕田猶不足食。亦南北市糴。又渡一海、千餘里、至末盧國。有四千餘戸、濱山海居、草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之。東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸。世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。東南至奴國百里、官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。東行至不彌國百里、官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。南至投馬國、水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戸。南至邪馬壹國。女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。可七萬餘戸。自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有為吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國。此女王境界所盡。其南有狗奴國、男子為王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里。(556字)
●まず、帯方郡から倭国へのルートを「魏志倭人伝」の記述にしたがって見てみたい。「從郡至倭」がそのルートであることは間違いない。つまり、帯方郡から倭国へ行くには韓国を経由する必要があった。東夷傳の『韓傳』冒頭に、次のようにある。
・韓在帯方之南、東西以海為限、南與倭接、方可四千里。
●帯方郡の南に韓国があって、東西は海で遮られ、北は帯方郡、南には倭国が存在するとある。四方が四千里もあると言うのだから大国である。その韓国を海岸線に沿って、七千餘里水行すれば、狗邪韓國へ達すると言う。
●幾つか問題がある。まず韓国は『方可四千里』だと言う。紆余曲折はあるだろうけれども、単純に南へ4千里、西へ3千里行け、ば狗邪韓國へ達すると言う。現在の釜山辺りになる。大陸から倭国へ行くには最も自然なルートである。
●もう一つ、注意すべきは「其北岸狗邪韓國」と言う表現である。「其北岸」と言うからには、狗邪韓國は倭国の一国だとするしかない。それは韓国に狗邪韓國の名が無いことからも確認される。
○次に「始度一海」とあるから、海を渡ることになる。「千餘里」先に「對海國」が出現する。当然、それは対馬島のことであろう。「絶島」であり、「方可四百餘里」の大きさの島だと言う。戸数は「千餘戸
」。
●さらに海を渡って南下を続ける。千餘里。ここが「瀚海」だと言う。その先に「一大國」が出現する。島の大きさは「方可三百里」。これはどう考えても壱岐島だとするしかない。戸数は「三千許家」とある。
○さらにさらに海を渡って南下する。千餘里。そうすると「末盧國」へ達する。戸数は「四千餘戸」。ここまで、対馬島から壱岐島と来れば、「末盧國」が松浦半島であることは間違いない。ここまでのルートは、どの学者先生の説も同じである。まず、間違えようが無い。
◎問題は、ここから先である。先に整理しておくと、「魏志倭人伝」の冒頭に、
倭人在帶方東南大海之中、依山島為國邑。舊百餘國。漢時有朝見者。今使譯所通三十國。
とあった。つまり現在魏国と通交のある倭国の数は三十国だとする。
◎三世紀の倭国には多くの国が存在した。なかには魏国が認識していない倭国もある。取り敢えず、現段階で魏国が認識する倭国が三十国だと言うのである。
◎そう考えると、この記述から「魏志倭人伝」と命名した識者は、相当な眼力の持ち主とするしかない。正確には「魏書」なのだが、「三国志」から「魏志」としたのであろう。「倭国伝」としないで、「倭人伝」としているのも、極めて正確である。
○繰り返しになるけれども、「魏志倭人伝」の主題は倭国三十国の案内にある。「魏志倭人伝」が他に述べたいことがあるわけが無いからである。そういう意味で、「魏志倭人伝」の主題は、次のように案内される。
【渡海三国】
・狗邪韓国・対馬国・壱岐国
【北九州四国】
・末廬国・伊都国・奴国・不弥国
【中九州二十国】
・斯馬国・巳百支国・伊邪国・都支国・邇奴国・好古都国・不呼国
・姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国・鬼国・為吾国・
・鬼奴国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・烏奴国・(奴国)
【南九州三国】
・投馬国・邪馬台国・狗奴国
○これを導き出すのに、必要な「魏志倭人伝」の文章は、上段556字となる。その全文は次の通り。
【上段】
倭人在帶方東南大海之中、依山島為國邑。舊百餘國。漢時有朝見者。今使譯所通三十國。從郡至倭、循海岸水行、曆韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里、始度一海、千餘里、至對海國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百餘里、土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸,無良田、食海物自活、乖船南北市糴。又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里、多竹木叢林、有三千許家、差有田地、耕田猶不足食。亦南北市糴。又渡一海、千餘里、至末盧國。有四千餘戸、濱山海居、草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之。東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸。世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。東南至奴國百里、官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。東行至不彌國百里、官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。南至投馬國、水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戸。南至邪馬壹國。女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。可七萬餘戸。自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有為吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國。此女王境界所盡。其南有狗奴國、男子為王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里。(556字)
●まず、帯方郡から倭国へのルートを「魏志倭人伝」の記述にしたがって見てみたい。「從郡至倭」がそのルートであることは間違いない。つまり、帯方郡から倭国へ行くには韓国を経由する必要があった。東夷傳の『韓傳』冒頭に、次のようにある。
・韓在帯方之南、東西以海為限、南與倭接、方可四千里。
●帯方郡の南に韓国があって、東西は海で遮られ、北は帯方郡、南には倭国が存在するとある。四方が四千里もあると言うのだから大国である。その韓国を海岸線に沿って、七千餘里水行すれば、狗邪韓國へ達すると言う。
●幾つか問題がある。まず韓国は『方可四千里』だと言う。紆余曲折はあるだろうけれども、単純に南へ4千里、西へ3千里行け、ば狗邪韓國へ達すると言う。現在の釜山辺りになる。大陸から倭国へ行くには最も自然なルートである。
●もう一つ、注意すべきは「其北岸狗邪韓國」と言う表現である。「其北岸」と言うからには、狗邪韓國は倭国の一国だとするしかない。それは韓国に狗邪韓國の名が無いことからも確認される。
○次に「始度一海」とあるから、海を渡ることになる。「千餘里」先に「對海國」が出現する。当然、それは対馬島のことであろう。「絶島」であり、「方可四百餘里」の大きさの島だと言う。戸数は「千餘戸
」。
●さらに海を渡って南下を続ける。千餘里。ここが「瀚海」だと言う。その先に「一大國」が出現する。島の大きさは「方可三百里」。これはどう考えても壱岐島だとするしかない。戸数は「三千許家」とある。
○さらにさらに海を渡って南下する。千餘里。そうすると「末盧國」へ達する。戸数は「四千餘戸」。ここまで、対馬島から壱岐島と来れば、「末盧國」が松浦半島であることは間違いない。ここまでのルートは、どの学者先生の説も同じである。まず、間違えようが無い。
◎問題は、ここから先である。先に整理しておくと、「魏志倭人伝」の冒頭に、
倭人在帶方東南大海之中、依山島為國邑。舊百餘國。漢時有朝見者。今使譯所通三十國。
とあった。つまり現在魏国と通交のある倭国の数は三十国だとする。
◎三世紀の倭国には多くの国が存在した。なかには魏国が認識していない倭国もある。取り敢えず、現段階で魏国が認識する倭国が三十国だと言うのである。
◎そう考えると、この記述から「魏志倭人伝」と命名した識者は、相当な眼力の持ち主とするしかない。正確には「魏書」なのだが、「三国志」から「魏志」としたのであろう。「倭国伝」としないで、「倭人伝」としているのも、極めて正確である。