○平成の大合併で鹿児島県肝属郡肝付町が誕生した。私のような余所者には、「どうして、肝属郡肝属町としなかったのか」と不思議に思えてならない。肝属郡肝付町と言う表記は何とも珍妙なものに思えて仕方が無い。と言うか、意味が無い気がしてならない。
○肝属の郡名は古い。713年に大隅国が設置された当時、肝杯郡、囎唹郡、大隅郡、姶羅郡の四郡の一つが肝杯郡であった。表記の仕方には、肝杯と肝属と肝付とさまざまであるが、最も普遍的なのは、やはり肝属ではないか。
○そもそも、肝属と言うのは、何を意味するのだろうか。それが判れば、表記がどれが良いかも判断される。そういう意味で、肝属と言う言葉の意味を考えてみたい。
●ところが、肝属と言う言葉が何を意味するかを案内する材料は何も無い。存在するのは、せいぜい、大隅国設置当時からの郡名と肝属川の名くらいのものではないか。これでは何も考えることもできない。
●その中で、唯一、存在するのが吾平山陵である。ある意味、肝属郡の代表的名所が吾平山陵だと言えるのではないか。そういう大名が肝属であった。それで後世、伴兼俊は郡名を採用して肝属氏を名乗ったわけである。
●神代三山陵の中で、最も新しいのが吾平山陵である。そして最もその存在価値の低いのも吾平山陵ではないか。したがって、吾平山陵を名乗る場所はそれ程多いわけでは無い。その最も有力な候補地が鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵である。
●現在、宮内庁が神代三山陵として管轄しているのは、次の通りである。
初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県薩摩川内市の新田神社
二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県霧島市溝辺町麓の高屋山陵
三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵
●しかし、神代三山陵は親子孫の三代のお墓である。それがこんなふうにバラバラであることは考えられない。如何にも政治的配慮の匂いがする。神代三山陵の第一人者である白尾國柱の意見もまるで尊重されていない。
●白尾國柱の研究を継承して、神代三山陵を探索すると、真実の神代三山陵が見えて来る。それは次のように案内される。
初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県肝属町内之浦甫与志岳(叶岳)
二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山
三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵
◎そう考えると、やはり、肝属地名は吾平山陵に拠るとするしかない。それが『きもつきのあひら』である。もともとは『かもつきのあひら』だったと予想される。もちろん、『かもつきのあひら』は枕詞である。
◎枕詞『かもつき』が掛かるのが「あひら」であることは言うまでも無い。「あひら」には、「吾平」と「姶良」の表記が存在する。「吾平」なら「あ・ひら」であって、「姶良」なら「あひ・ら」となって語の組成が違う。吾平山陵の状況から考えると、そこは河合であることから、「あひ・ら」が相応しい表記であることが判る。
◎吾平山陵が神代三代目である彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵であることを忘れてはならない。彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊は神武天皇の御父である。つまり、神武天皇はこの地で45歳まで生活していたことになる。
◎
○肝属の郡名は古い。713年に大隅国が設置された当時、肝杯郡、囎唹郡、大隅郡、姶羅郡の四郡の一つが肝杯郡であった。表記の仕方には、肝杯と肝属と肝付とさまざまであるが、最も普遍的なのは、やはり肝属ではないか。
○そもそも、肝属と言うのは、何を意味するのだろうか。それが判れば、表記がどれが良いかも判断される。そういう意味で、肝属と言う言葉の意味を考えてみたい。
●ところが、肝属と言う言葉が何を意味するかを案内する材料は何も無い。存在するのは、せいぜい、大隅国設置当時からの郡名と肝属川の名くらいのものではないか。これでは何も考えることもできない。
●その中で、唯一、存在するのが吾平山陵である。ある意味、肝属郡の代表的名所が吾平山陵だと言えるのではないか。そういう大名が肝属であった。それで後世、伴兼俊は郡名を採用して肝属氏を名乗ったわけである。
●神代三山陵の中で、最も新しいのが吾平山陵である。そして最もその存在価値の低いのも吾平山陵ではないか。したがって、吾平山陵を名乗る場所はそれ程多いわけでは無い。その最も有力な候補地が鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵である。
●現在、宮内庁が神代三山陵として管轄しているのは、次の通りである。
初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県薩摩川内市の新田神社
二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県霧島市溝辺町麓の高屋山陵
三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵
●しかし、神代三山陵は親子孫の三代のお墓である。それがこんなふうにバラバラであることは考えられない。如何にも政治的配慮の匂いがする。神代三山陵の第一人者である白尾國柱の意見もまるで尊重されていない。
●白尾國柱の研究を継承して、神代三山陵を探索すると、真実の神代三山陵が見えて来る。それは次のように案内される。
初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県肝属町内之浦甫与志岳(叶岳)
二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山
三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵
◎そう考えると、やはり、肝属地名は吾平山陵に拠るとするしかない。それが『きもつきのあひら』である。もともとは『かもつきのあひら』だったと予想される。もちろん、『かもつきのあひら』は枕詞である。
◎枕詞『かもつき』が掛かるのが「あひら」であることは言うまでも無い。「あひら」には、「吾平」と「姶良」の表記が存在する。「吾平」なら「あ・ひら」であって、「姶良」なら「あひ・ら」となって語の組成が違う。吾平山陵の状況から考えると、そこは河合であることから、「あひ・ら」が相応しい表記であることが判る。
◎吾平山陵が神代三代目である彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵であることを忘れてはならない。彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊は神武天皇の御父である。つまり、神武天皇はこの地で45歳まで生活していたことになる。
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