○前回、『再度、卑弥呼の鬼道について』と題して、卑弥呼の鬼道が仏教であり、太陽崇拝であることを話した。その卑弥呼の鬼道の風景を見るために、2017年12月10日から14日まで、中国浙江省、舟山群島の普陀山へお参りした話もした。
○卑弥呼の鬼道と言えば、三世紀の倭国のことである。その風景を中国浙江省、舟山群島の普陀山では現在でも見ることができる。嘘みたいな本当の話である。
○実際の写真を、前々回、前回と紹介しているので、ご覧いただければ、お判りのはずである。ただ、実際の写真を見たところで、それが卑弥呼の鬼道の風景だと理解できる人は少ないのではないか。それを理解するには、余程、卑弥呼の鬼道を学習しないと無理なのである。
○今回は、そういう手段の一つとして、補陀落渡海の話をしたい。ウィキペディアフリー百科事典には、補陀落渡海について、次のように載せる。
補陀落渡海
補陀落渡海(ふだらくとかい)は、日本の中世において行われた、捨身行の形態である。自発的な
捨身行であるとは限らず、強制されたものもあった。
【概要】
この行為の基本的な形態は、南方に臨む海岸に渡海船と呼ばれる小型の木造船を浮かべて行者が乗
り込み、そのまま沖に出るというものである。その後、伴走船が沖まで曳航し、綱を切って見送る。
場合によってはさらに108の石を身体に巻き付けて、行者の生還を防止する。ただし江戸時代には、既
に死んでいる人物の遺体(補陀洛山寺の住職の事例が知られている)を渡海船に乗せて水葬で葬ると
いう形に変化する。
最も有名なものは紀伊(和歌山県)の那智勝浦における補陀落渡海で、『熊野年代記』によると、8
68年から1722年の間に20回実施されたという。この他、足摺岬、室戸岬、那珂湊などでも補陀落渡海
が行われたとの記録がある。
熊野那智での渡海の場合は、原則として補陀洛山寺の住職が渡海行の主体であったが、例外として
『吾妻鏡』天福元年(1233年)5月27日の条に、下河辺六郎行秀という元武士が補陀洛山で「智定房」
と号し渡海に臨んだと記されている。
補陀落渡海についてはルイス・フロイスも著作中で触れている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%9C%E9%99%80%E8%90%BD%E6%B8%A1%E6%B5%B7
○補陀落渡海についても、これまで随分書いている気がする。
・書庫「吐噶喇往還」:ブログ『補陀洛渡海』~2012/7/10(火)~
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/36763691.html
・書庫「普陀山・洛迦山」:ブログ『補陀落渡海』~2012/8/25(土)~
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/36926359.html
・書庫「寧波三歩・洛迦山参詣」:ブログ『補陀落渡海の島』~2013/2/13(水)~
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/37515573.html
・書庫「寧波三歩・洛迦山参詣」:ブログ『補陀落渡海の意味するもの』~2013/2/14(木) ~
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/37519178.html?type=folderlist
○卑弥呼の鬼道と言えば、三世紀の倭国のことである。その風景を中国浙江省、舟山群島の普陀山では現在でも見ることができる。嘘みたいな本当の話である。
○実際の写真を、前々回、前回と紹介しているので、ご覧いただければ、お判りのはずである。ただ、実際の写真を見たところで、それが卑弥呼の鬼道の風景だと理解できる人は少ないのではないか。それを理解するには、余程、卑弥呼の鬼道を学習しないと無理なのである。
○今回は、そういう手段の一つとして、補陀落渡海の話をしたい。ウィキペディアフリー百科事典には、補陀落渡海について、次のように載せる。
補陀落渡海
補陀落渡海(ふだらくとかい)は、日本の中世において行われた、捨身行の形態である。自発的な
捨身行であるとは限らず、強制されたものもあった。
【概要】
この行為の基本的な形態は、南方に臨む海岸に渡海船と呼ばれる小型の木造船を浮かべて行者が乗
り込み、そのまま沖に出るというものである。その後、伴走船が沖まで曳航し、綱を切って見送る。
場合によってはさらに108の石を身体に巻き付けて、行者の生還を防止する。ただし江戸時代には、既
に死んでいる人物の遺体(補陀洛山寺の住職の事例が知られている)を渡海船に乗せて水葬で葬ると
いう形に変化する。
最も有名なものは紀伊(和歌山県)の那智勝浦における補陀落渡海で、『熊野年代記』によると、8
68年から1722年の間に20回実施されたという。この他、足摺岬、室戸岬、那珂湊などでも補陀落渡海
が行われたとの記録がある。
熊野那智での渡海の場合は、原則として補陀洛山寺の住職が渡海行の主体であったが、例外として
『吾妻鏡』天福元年(1233年)5月27日の条に、下河辺六郎行秀という元武士が補陀洛山で「智定房」
と号し渡海に臨んだと記されている。
補陀落渡海についてはルイス・フロイスも著作中で触れている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%9C%E9%99%80%E8%90%BD%E6%B8%A1%E6%B5%B7
○補陀落渡海についても、これまで随分書いている気がする。
・書庫「吐噶喇往還」:ブログ『補陀洛渡海』~2012/7/10(火)~
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/36763691.html
・書庫「普陀山・洛迦山」:ブログ『補陀落渡海』~2012/8/25(土)~
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/36926359.html
・書庫「寧波三歩・洛迦山参詣」:ブログ『補陀落渡海の島』~2013/2/13(水)~
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/37515573.html
・書庫「寧波三歩・洛迦山参詣」:ブログ『補陀落渡海の意味するもの』~2013/2/14(木) ~
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/37519178.html?type=folderlist