○岑參の『與高適薛據同登慈恩寺浮圖』詩から、高適の『同諸公登慈恩寺浮圖』詩、杜甫の『同諸公登慈恩寺塔』詩でと続けている。
・書庫「無題」:ブログ『岑參:與高適薛據同登慈恩寺浮圖』
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/41454470.html
・書庫「無題」:ブログ『高適:同諸公登慈恩寺浮圖』
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/41455414.html
・書庫「無題」:ブログ『杜甫:同諸公登慈恩寺塔』
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/41457135.html
○今回は、引き続き、儲光羲の『同諸公登慈恩寺塔』詩である。
【原文】
同諸公登慈恩寺塔
儲光羲
金祠起真宇,直上青雲垂。地靜我亦,登之秋清時。
蒼蕪宜春苑,片碧昆明池。誰道天漢高,逍遙方在茲。
虛形賓太極,攜手行翠微。雷雨傍杳冥,鬼神中躨跜。
靈變在倏忽,莫能窮天涯。冠上閶闔開,履下鴻雁飛。
宮室低邐迤,群山小參差。俯仰宇宙空,庶隨了義歸。
崱屴非大廈,久居亦以危。
【書き下し文】
諸公の慈恩寺の塔に登るに同ず
儲光羲
金祠は、真宇に起こり、
直ちに上る、青雲の垂。
地は靜かに、我れも亦た閑かに、
之に登るは、秋清の時なり。
蒼蕪は、宜春苑、
片碧は、昆明池。
誰か道はん、天漢の高きを、
逍遙は、方に茲に在るを。
形を虛しくして、太極を賓へ、
手を攜へて、翠微を行ふ。
雷雨は、杳冥を傍らにし、
鬼神は、躨跜を中にす。
靈變は、倏忽に在り、
能く天涯を窮むる莫し。
冠上に、閶闔の開け、
履下に、鴻雁の飛ぶ。
宮室は、低く邐迤し、
羣山は、小さく參差す。
宇宙の空を俯き仰ぎ、
了義の歸に庶く隨ふ。
崱屴は大廈に非ずして、
久しく居るは、亦た以て危ふし。
【我が儘勝手な私訳】
大慈恩寺の大雁塔は、道観のようなもので、
真っすぐ、青空に向かって聳えている。
世の中が平和で、私自身もまた心穏やかな時に、
皆と一緒に大雁塔に登ったのは、秋の清浄な季節であった。
青々とした草原は、大慈恩寺南側に広がる宜春苑で、
もう一つの青々とした湖は、大慈恩寺西側に広がる昆明池である。
誰もが銀河は遥か空の果てだと言うけれども、
ここでは散歩に出掛けるくらい近さにある。
大雁塔は、上空に太陽と月とを従えて、
大雁塔は、横には、手の届く先に、青々とした山々を配置している。
雷雨は、大雁塔を暗闇に閉じ込め、
鬼神は、大雁塔に魑魅魍魎を跋扈させる。
大雁塔では、神奇不測の変化は、たちまちのうちに生じて、
大雁塔にあっても、空の彼方を見極めることは、難しい。
頭の上には、天門である閶闔があって、
足元からは、白鳥や雁が飛んで行く。
都長安の宮城は、大雁塔の北側に低く連なって見え、
秦嶺山脈は、大雁塔の南側に小さく凸凹している。
大雁塔では、空は上にも下にも見るものであって、
大雁塔では、佛の御教えにもっとも身近に接することができる。
大雁塔は、高大でなおかつ峻険で、決して大楼ではないけれども、
だからと言って、長居するところではない。
○儲光羲の『同諸公登慈恩寺塔』詩は、22行の五言古詩である。うんざりするくらい長い。儲光羲なる詩人は初見だったが、日本のウィキペディアフリー百科事典には、しっかり、儲光羲項目が存在する。
儲光羲
儲光羲(ちょ こうぎ、707年 - 760年?)は中国唐代の詩人。
山東省・兗州の出身。726年に進士となり、756年に監察御史となる。安禄山の乱の時に賊軍に官を
授けられたため、乱後は嶺南に流され、その地で没する。
その詩は陶淵明を模範とし、質朴・古雅の趣をふくみ、田園詩に長じ王維・孟浩然・韋応物と肩を
並べた。著に『儲光羲詩集』5巻の他、『正論・九経分義疎』があり、『唐詩選』に洛陽道などの絶
句4首を収めている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/儲光羲
○杜甫の『同諸公登慈恩寺塔』詩を読むと、杜甫がよく勉強しているのに感心する。しかし、儲光羲も決して杜甫に負けていない。杜甫や儲光羲は、根っからの詩人なのであろう。
○中国の検索エンジン百度の『百度百科』が案内する儲光羲は、次の通り。
储光羲
储光羲(约706—763)唐代官员,润州延陵人,祖籍兖州。田园山水诗派代表诗人之一。开元十四年
(726年)举进士,授冯翊县尉,转水、安宣、下邽等地县尉。因仕途失意,遂隐居终南山。后复出
任太祝,世称储太祝,官至监察御史。安史之乱中,叛军攻陷长安,被俘,迫受伪职。乱平,自归朝廷
请罪,被系下狱,有《狱中贻姚张薛李郑柳诸公》诗,后贬谪岭南。江南储氏多为光羲公后裔,尊称为
“江南储氏之祖”。
https://baike.baidu.com/item/储光羲/1383131