○陳子昂の『薊丘覽古贈盧居士藏用七首(並序)』から、『陳子昂:薊丘覽古贈盧居士藏用七首(並序)』として、最初に『軒轅台』詩を訳し、続けて、前回、陳子昂の『薊丘覽古・燕昭王』詩を案内した。
○したがって、今回案内するのは、陳子昂の『薊丘覽古・樂生』詩である。
【原文】
薊丘覽古・樂生
陳子昂
王道已淪昧
戰國競貪兵
樂生何感激
仗義下齊城
雄圖竟中夭
遺嘆寄阿衡
【書き下し文】
薊丘覽古・樂生
陳子昂
王道は已に淪昧し、
戰國は貪兵を競ふ。
樂生は何ぞ感激して、
義を仗みに齊城を下さん。
雄圖は竟に中夭し、
遺嘆は阿衡に寄す。
【我が儘勝手な私訳】
王道はすでにすっかり有名無実化したものとなり、
今は、諸国が軍事力を争う戦国の世となっている。
戦国時代の名将、樂毅はいったい何に感激発奮して、
義を正して斉国の各城を落としていったのであろうか。
樂毅の壮大な目論見は、しまいに頓挫してしまったが、
樂毅の悲しみは、そのまま商代の賢相、伊尹の悲しみに繋がる。
○しみじみと、陳子昂が司馬遷の「史記」の愛読者であったことを実感させられる。それも『軒轅台』詩の黃帝の事績から始めようとする壮大な構想であることに驚く。続けて、陳子昂が案内するのは燕の昭王であった。
○そうなると、次に来るのが樂毅であることは、「史記」の愛読者であれば、誰もが納得する話である。陳子昂にとって、司馬遷の「史記」は、途方もない昔話ではなくて、ごく身近な話であったことが判る。
○陳子昂がそうであるように、実は私も「史記」のささやかな愛読者の一人である。陳子昂がここで展開してみせる世界は、「史記」の愛読者なら、誰もが了承する。そういうとんでもない世界を陳子昂は『薊丘覽古贈盧居士藏用七首(並序)』で示している。何とも楽しい世界である。