○白尾國柱著「麑藩名勝考」が案内する吾平山上陵は、次の通り。
吾平山陵(書紀○吾平即姶良郷の事にて、今俗鵜戸窟と称ふ。又陵地を鵜戸川とも称ふ。)
府東南十二里
書紀曰、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊崩於西洲之宮。因葬日向吾平山上陵是也。延喜諸陵式曰、日向吾
平山上陵、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊、在日向国無陵戸。
吾平山陵、大巌窟中に在り。この窟洞丑寅に向ひ、その内寛坦にして、入深(十間)、口濶(十
二間)四畝也。窟口の外(横三間、長十二間)壱畝也。合て五畝。入口より九間余の所に切石を祠壇
とし、其上に高一丈余の社を立つ。(社内に古鏡數面を蔵む。)切石の下は即玉體を借め奉りし所也。
むかしはこの切石の下数尋の深壙なりしを、慶長九年、洪水にて窟内を洗浄め、且その壙を埋しと云。
○社の後に圍一丈五六余の土岩あり。甚奇也。中に穴横さまに透る、試の穴と称ふ。陵壙を伺ひ視し
所なるべし。又社の右方一間許に高三尺、圍一丈余の塚あり。上に一塊の石を立つ。俗に神武陵と云。
神武帝御母玉依姫を葬り玉ひし陵と云。又社の左七間許、高三尺許の処より霊泉を出す。目洗水と云。
此水にて眼を洗へば、生涯眼疾を患ずとぞ。凡窟内の丘壟、始は土にて築きしにてもあるべき。今は
堅牢にして石の如く、緑苔殷㵎縹色をなせり。(凡窟内、入口三間程の所まで高三尋一尺五寸。又三
方の脇各高四尺より五尺まであり。惣じてこの窟の山を鵜戸山と称ふ。山の回り一里許。又窟の入口
の上五六尺許所、明和四年丁亥十二月廿六日の夜、自崩れて其隕岩の高一丈二尺、厚東西八尺、南北
九間あり。)按に、舊事大成經に、葺不合尊御存生の時、預死期をしろしめし、壽域を定め営らし玉
へる事を載たり。大成經は偽書なれども、或は世傳に拠れる所あるにや。この御陵の様子は、上古先
皇の廟陵と相似て、その陵の中を伺ひ視るべき穴と覚しきは、後の山陵の戸口と見へしものと同じく、
巌窟の躰なども只ならざる霊蹤にて、大成經の説も稍符合せるが如し。社記曰、始め尊誕聖于日向那
珂郡宮浦鸕殿海濱、故廟諱因其生土者、示不忘初也。
吾平山陵(書紀○吾平即姶良郷の事にて、今俗鵜戸窟と称ふ。又陵地を鵜戸川とも称ふ。)
府東南十二里
書紀曰、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊崩於西洲之宮。因葬日向吾平山上陵是也。延喜諸陵式曰、日向吾
平山上陵、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊、在日向国無陵戸。
吾平山陵、大巌窟中に在り。この窟洞丑寅に向ひ、その内寛坦にして、入深(十間)、口濶(十
二間)四畝也。窟口の外(横三間、長十二間)壱畝也。合て五畝。入口より九間余の所に切石を祠壇
とし、其上に高一丈余の社を立つ。(社内に古鏡數面を蔵む。)切石の下は即玉體を借め奉りし所也。
むかしはこの切石の下数尋の深壙なりしを、慶長九年、洪水にて窟内を洗浄め、且その壙を埋しと云。
○社の後に圍一丈五六余の土岩あり。甚奇也。中に穴横さまに透る、試の穴と称ふ。陵壙を伺ひ視し
所なるべし。又社の右方一間許に高三尺、圍一丈余の塚あり。上に一塊の石を立つ。俗に神武陵と云。
神武帝御母玉依姫を葬り玉ひし陵と云。又社の左七間許、高三尺許の処より霊泉を出す。目洗水と云。
此水にて眼を洗へば、生涯眼疾を患ずとぞ。凡窟内の丘壟、始は土にて築きしにてもあるべき。今は
堅牢にして石の如く、緑苔殷㵎縹色をなせり。(凡窟内、入口三間程の所まで高三尋一尺五寸。又三
方の脇各高四尺より五尺まであり。惣じてこの窟の山を鵜戸山と称ふ。山の回り一里許。又窟の入口
の上五六尺許所、明和四年丁亥十二月廿六日の夜、自崩れて其隕岩の高一丈二尺、厚東西八尺、南北
九間あり。)按に、舊事大成經に、葺不合尊御存生の時、預死期をしろしめし、壽域を定め営らし玉
へる事を載たり。大成經は偽書なれども、或は世傳に拠れる所あるにや。この御陵の様子は、上古先
皇の廟陵と相似て、その陵の中を伺ひ視るべき穴と覚しきは、後の山陵の戸口と見へしものと同じく、
巌窟の躰なども只ならざる霊蹤にて、大成經の説も稍符合せるが如し。社記曰、始め尊誕聖于日向那
珂郡宮浦鸕殿海濱、故廟諱因其生土者、示不忘初也。