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吾平山上陵から甫与志岳

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○2018年12月25日に、吾平山上陵から姫門登山口へ行き、甫与志岳へ登った。吾平山上陵から神野経由で、姫門登山口までは、およそ23劼任△辰拭ちなみに、吾平山上陵辺りの標高は50辰曚鼻それに対して、姫門登山口の標高は610辰發△襦

○現在は、このようなルートで登るしかない。しかし、江戸時代辺りであれば、黒羽根集落経由で岩屋へ出て登るルートが考えられる。どのみち、山道を歩くのだから、このルートが最も近い。吾平山上陵から甫与志岳山頂まで、15劼曚匹嚢圓ことができる。

○肝付町のHPには、三岳参りについて、次のように載せている。
      三岳登山
   三度まいれば妻めとる?
   国見・甫与志(ほよし)・黒尊(くろそん)の三山を総称で三岳と呼びます。三岳の中でも一級三
  角点である甫与志岳が最高峰であり、多くの登山客が詰めかけ、山頂には記念碑が多く見られます。
   山頂は360度の大パノラマが展開し、天気の良い日には種子島・開聞岳を望むこともできます。3月
  にはアケボノツツジも開花し、この時期が登山客のピークを迎えます。
   また、この三山にはそれぞれ祠があり、三岳縦走と呼ばれる縦走登山中に三つの祠を回ることがで
  きれば妻をめとるという言い伝えがあり、そのために昔の若者は縦走し結婚を祈願しました。
   ちなみに三つの山の三角点は、旧内之浦町と旧高山町の町境に位置しており、この二町が合併し肝
  付町となったのも頷けるような気がします。
  https://kimotsuki-town.jp/kanko/spot/2068.html

○現在でも、姫門登山口に残る、旧内之浦町・内之浦観光協会の三岳参り案内板には、次のように載せている。
      三岳参り
   江戸時代から肝属地方に伝わる岳参り(タケメイ)で、
  三岳参りは肝属山地の「国見岳」「黒尊岳」「甫与志岳」を縦走する
  ロマンを秘めた登山大会。
   春たけなわの4月3日(シンガサニッ)が例祭日で、
  地元高山町、内之浦町を始め遠くは大崎町、串良町、東串良町、吾平町などの
  老若男女が夜中立ちして群詣したという。
   三岳の神様に、大漁、豊作、家内安全、無病息災を祈願する山岳信仰が本旨だが、
  徒歩が唯一の交通手段だった頃の、年に1回のロマンを求める社交の場でもあったようだ。

○実際、寛政七年(1785年)刊行の「麑藩名勝考」にも、白尾國柱は内之浦三嶽として、三岳参りを、黒園嶽項目で、次のように記録している。
   毎年四月三日を以祭事あり。諸人群詣するの例とす。
  凡國見・母養子・黒園を内浦の三嶽と称ふ。

●白尾國柱が「麑藩名勝考」に記録しているように、内之浦三岳参りが、もともと祭事であったことは間違いない。「麑藩名勝考」には、その神社が何処であったかを明らかにしていない。

●と言うのは、内之浦三岳参りは、長大なものであって、広範囲に渉るものである。したがって、出発地と到着地とは、別物であったと考える方が自然ではないか。もちろん、そのどちらもが神社であった。

●それも、田舎の神社であっては、人は集まらない。名立たる神社で無いと無理だろう。そういうふうに考えれば、出発地は、吾平山上陵の脇にあった鵜戸六所権現とするしかない。「麑藩名勝考」が記録する
鵜戸六所権現は、次の通り。
      鵜戸六所権現(陵窟の北ノ方三十六間許に在り。戌亥に向ふ。其間に一つの小川流る。)
  奉祀即鸕鷀草葺不合尊、配享(玉依姫・彦五瀬命・稲飯命・三毛入野命・神武天皇、例祭九月十九日)
  當社は中古廃壊してありしを、今太公 淨國公の盛志を継せ玉ひ、明和六年歳在戊子、官吏に命じて
  地を相て工を鳩め、権現廟を新建し玉ひ、制造宏麗千古の霊蹟を表挙し、永止の神像を奉安し玉ひけ
  り。是歳十二月十八日、神人出羽守従五位下本田親盈命を受て、神霊勧請の奉幣を行ふ。今夜荷掛原
  鳥居の方にあり。電光天を射てすさまじく、陵窟大に鳴動す。事に関れる有司等親しく見聞くもの、
  聳然として来格の霊験を感歎す。
   この権現廟側の御前の流れ一の川となる、前なるを一渡りといひ、又一町余の下流を二渡りとい
  ひ、又一町余の下流を三渡りといひ、又一町余の下流を四渡りといふ。同流巴曲をなして四渡より是
  を渉り、坂を上りて荷掛原てふ処に鳥居あり。四渡よりこの鳥居迄三町余、霊窟より八町あり。荷掛
  原はむかし荷前の祭ありし時、贄料を掛たる遺称也とぞ。

◎つまり、内之浦三岳参りは、もともと、神代三山陵巡りであった。それは真実の神代三山陵が次のようであることからも、明らかだろう。
  初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県肝属町内之浦甫与志岳(叶岳)
  二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山
  三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵

◎したがって、神代第三代である彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵、吾平山陵から、初代の彦火瓊々杵尊の御陵、可愛山陵へ、最初に参詣し、続けて、二代目の彦火火出見尊の御陵、高屋山陵を経て、内之浦の高屋神社へ降りてくるルートだったのではないか。

◎白尾國柱の「麑藩名勝考」が、内之浦三岳参りを単に『祭事』と記録しているのは、おそらく、そういうことだろう。それは鵜戸六所権現単独の行事ではなかったのである。また、それを主導するのは、神仏習合の修験道だったことも間違いあるまい。

◎なぜならば、内之浦三岳参りは、成長発展を遂げ、日本修験道の創世に関与しているのだから。その話は、次回に繋げたい。

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