○肝付町のHPでは、観光サイト・観光スポットとして、三岳登山を、次のように案内している。
三岳登山
三度まいれば妻めとる?
国見・甫与志(ほよし)・黒尊(くろそん)の三山を総称で三岳と呼びます。三岳の中でも一級三
角点である甫与志岳が最高峰であり、多くの登山客が詰めかけ、山頂には記念碑が多く見られます。
山頂は360度の大パノラマが展開し、天気の良い日には種子島・開聞岳を望むこともできます。3
月にはアケボノツツジも開花し、この時期が登山客のピークを迎えます。
また、この三山にはそれぞれ祠があり、三岳縦走と呼ばれる縦走登山中に三つの祠を回ることがで
きれば妻をめとるという言い伝えがあり、そのために昔の若者は縦走し結婚を祈願しました。
ちなみに三つの山の三角点は、旧内之浦町と旧高山町の町境に位置しており、この二町が合併し肝
付町となったのも頷けるような気がします。
https://kimotsuki-town.jp/kanko/spot/2068.html
○同じようなものが、旧内之浦町・内之浦観光協会の三岳参り案内板として、姫門登山口に残っていて、それには、次のように載せている。
三岳参り
江戸時代から肝属地方に伝わる岳参り(タケメイ)で、
三岳参りは肝属山地の「国見岳」「黒尊岳」「甫与志岳」を縦走する
ロマンを秘めた登山大会。
春たけなわの4月3日(シンガサニッ)が例祭日で、
地元高山町、内之浦町を始め遠くは大崎町、串良町、東串良町、吾平町などの
老若男女が夜中立ちして群詣したという。
三岳の神様に、大漁、豊作、家内安全、無病息災を祈願する山岳信仰が本旨だが、
徒歩が唯一の交通手段だった頃の、年に1回のロマンを求める社交の場でもあったようだ。
○「内之浦三岳参りとは何か」を考える際、そもそも、三岳参りとは何処のものかと言うことが気になる。「内之浦三岳参りとは何か」と銘打てば、それは内之浦のものだと言うことが判る。しかし、それが『肝付町合併10周年記念「三岳まいり」』となると、随分、趣を異にする。
○そういう意味では、寛政7年(1795年)の白尾國柱著「麑藩名勝考」が、三岳参りを、次のように記録しているのが参考になる。
黒尊岳(同郷北方村國見嶽の午未方一里余に在り。)
土俗相傳て、火々出見尊遊行玉ひし所也と云。是に一神石山上に屹立す。高壹間三尺余。圍壹間四
尺。街道より南に丁る。奇しき巌にて、石の下に火々出見尊を斎ひ祭る。毎年四月三日を以祭事あり。
諸人群詣するの例とす。凡國見・母養子・黒園を内浦の三嶽と称ふ。
○念の為、天保14年(1843年)の「三国名勝図会」でも確認すると、母養子山項目に、次のように載せる。
母養子山(地頭館より申方凡三里余)
小串村にあり。彦火々出見尊、玉依姫をして、皇子葺不合尊を養育せしめ玉ひし所故に、母養子山
と號けしといふ。(中略)
毎年四月三日、衆人高屋及び黒園母養子の三嶽に群詣す。是を三嶽参りと唱ふ。
○このように見て来ると、やはり、『内之浦三岳参り』とするのが正しいのではないか。
三岳登山
三度まいれば妻めとる?
国見・甫与志(ほよし)・黒尊(くろそん)の三山を総称で三岳と呼びます。三岳の中でも一級三
角点である甫与志岳が最高峰であり、多くの登山客が詰めかけ、山頂には記念碑が多く見られます。
山頂は360度の大パノラマが展開し、天気の良い日には種子島・開聞岳を望むこともできます。3
月にはアケボノツツジも開花し、この時期が登山客のピークを迎えます。
また、この三山にはそれぞれ祠があり、三岳縦走と呼ばれる縦走登山中に三つの祠を回ることがで
きれば妻をめとるという言い伝えがあり、そのために昔の若者は縦走し結婚を祈願しました。
ちなみに三つの山の三角点は、旧内之浦町と旧高山町の町境に位置しており、この二町が合併し肝
付町となったのも頷けるような気がします。
https://kimotsuki-town.jp/kanko/spot/2068.html
○同じようなものが、旧内之浦町・内之浦観光協会の三岳参り案内板として、姫門登山口に残っていて、それには、次のように載せている。
三岳参り
江戸時代から肝属地方に伝わる岳参り(タケメイ)で、
三岳参りは肝属山地の「国見岳」「黒尊岳」「甫与志岳」を縦走する
ロマンを秘めた登山大会。
春たけなわの4月3日(シンガサニッ)が例祭日で、
地元高山町、内之浦町を始め遠くは大崎町、串良町、東串良町、吾平町などの
老若男女が夜中立ちして群詣したという。
三岳の神様に、大漁、豊作、家内安全、無病息災を祈願する山岳信仰が本旨だが、
徒歩が唯一の交通手段だった頃の、年に1回のロマンを求める社交の場でもあったようだ。
○「内之浦三岳参りとは何か」を考える際、そもそも、三岳参りとは何処のものかと言うことが気になる。「内之浦三岳参りとは何か」と銘打てば、それは内之浦のものだと言うことが判る。しかし、それが『肝付町合併10周年記念「三岳まいり」』となると、随分、趣を異にする。
○そういう意味では、寛政7年(1795年)の白尾國柱著「麑藩名勝考」が、三岳参りを、次のように記録しているのが参考になる。
黒尊岳(同郷北方村國見嶽の午未方一里余に在り。)
土俗相傳て、火々出見尊遊行玉ひし所也と云。是に一神石山上に屹立す。高壹間三尺余。圍壹間四
尺。街道より南に丁る。奇しき巌にて、石の下に火々出見尊を斎ひ祭る。毎年四月三日を以祭事あり。
諸人群詣するの例とす。凡國見・母養子・黒園を内浦の三嶽と称ふ。
○念の為、天保14年(1843年)の「三国名勝図会」でも確認すると、母養子山項目に、次のように載せる。
母養子山(地頭館より申方凡三里余)
小串村にあり。彦火々出見尊、玉依姫をして、皇子葺不合尊を養育せしめ玉ひし所故に、母養子山
と號けしといふ。(中略)
毎年四月三日、衆人高屋及び黒園母養子の三嶽に群詣す。是を三嶽参りと唱ふ。
○このように見て来ると、やはり、『内之浦三岳参り』とするのが正しいのではないか。