Quantcast
Channel: 古代文化研究所
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1914

「魏志倭人伝」を読む④

$
0
0
○前回、陳寿が案内する帯方郡から邪馬台国までの道程、
  ・自郡至女王國萬二千餘里。
が、どのようなものであるかを検証した。それは、次のように案内される。
  ∥喨刈狗邪韓國=七千餘里
  狗邪韓國→對馬國=千餘里
  U馬國→一大國=千餘里
  ぐ貘舖□末盧國=千餘里
  ニ犀□伊都國=五百里
  Π謀墺□奴國=百里
  奴國→不彌國=百里
  不彌國→投馬國=千五百余里
  投馬國→邪馬壹國=八百余里

○このように、案内されると、当たり前のように思われるかも知れない。しかし、実際は、「魏志倭人伝」から、このことを読み解いた人は誰も居ない。陳壽が「魏志倭人伝」を書いて1700年も経つと言うのに。それ程、「魏志倭人伝」を読むことは難しい。

●今回は、「魏志倭人伝」の第二段落を読み進めたい。最初に、その全文から案内したい。
【第二段落】
 男子無大小皆黥面文身。自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。夏后少康之子封於會稽、斷髪文身以避蛟龍之害。今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以為飾。諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。計其道里、當在會稽、東冶之東。其風俗不淫、男子皆露紒、以木綿招頭。其衣幅、但結束相連、略無縫。婦人被髪屈紒、作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之。種禾稻、紵麻、蠶桑、緝績、出細紵、縑綿。其地無牛馬虎豹羊鵲。兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃、所有無與儋耳、硃崖同。倭地溫暖、冬夏食生菜、皆徒跣。有屋室、父母兄弟臥息異處、以朱丹塗其身體、如中國用粉也。食飲用籩豆、手食。其死、有棺無槨、封土作塚。始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飲酒。已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。其行來渡海詣中國、恆使一人、不梳頭、不去蟣虱、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人、名之為持衰。若行者吉善、共顧其生口財物。若有疾病、遭暴害、便欲殺之。謂其持衰不謹。出真珠、青玉。其山有丹、其木有柟、杼、豫樟、楺櫪、投橿、烏號、楓香。其竹筱簳、桃支。有薑、橘、椒、蘘荷、不知以為滋味。有獮猴、雉。其俗舉事行來、有所云為、輒灼骨而卜、以占吉凶、先告所卜、其辭如令龜法、視火坼占兆。其會同坐起、父子男女無別、人性嗜酒。【魏略曰:其俗不知正歳四節、但計春耕秋收為年紀。】見大人所敬、但搏手以當跪拜。其人壽考、或百年、或八九十年。其俗、國大人皆四五婦、下戸或二三婦。婦人不淫、不妒忌。不盜竊、少諍訟。其犯法、輕者沒其妻子、重者滅其門戸及宗族。尊卑各有差序、足相臣服。收租賦。有邸閣。國國有市、交易有無、使大倭監之。自女王國以北、特置一大率、檢察諸國。諸國畏憚之。常治伊都國。於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。下戸與大人相逢道路、逡巡入草。傳辭説事、或蹲或跪、兩手據地、為之恭敬。對應聲曰噫、比如然諾。其國本亦以男子為王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歷年。乃共立一女子為王。名曰卑彌呼。事鬼道、能惑眾。年已長大、無夫婿。有男弟佐治國。自為王以來、少有見者。以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食、傳辭出入。居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衛。女王國東渡海千餘里。復有國。皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國、齒國復在其東南。船行一年可至。參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。(829字)

●【第一段落】が556字だったのに対し、【第二段落】は829字とやや多い。また、【第一段落】が倭国三十国の案内だったのに対し、【第二段落】では、ガラリとその内容を変える。もちろん、その内容が倭国の案内にあることは間違いない。

●【第二段落】の冒頭が、
  ・男子無大小皆黥面文身。自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。夏后少康之子封於會稽、斷髪文身以
  避蛟龍之害。今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以為飾。諸國文身各異、或左或右、
  或大或小、尊卑有差。
と始まっていることにも、留意する必要があろう。これは、いわゆる、刺青の話である。倭人の最大の特徴は、刺青にある。そういうことでも言いたい表現となっている。

●また、次の、
  ・自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。
も、極めて気になる表現である。倭人は昔から、何度も中国へ朝貢し、その使いが皆、太夫を称していたと言うのだから。

●続けて、
  ・夏后少康之子封於會稽、斷髪文身以避蛟龍之害。
と言う表現がある。この表現は、陳壽のものではなく、先行する正史「漢書」からの引用であることに留意する必要がある。「漢書」地理志・粵地には、次のように記す。
  ・其君禹後,帝少康之庶子云,封於會稽,文身斷髮,以避蛟龍之害。

◎判るように、陳寿は、決して独創的に倭国及び倭人を描こうとしているわけではない。あくまで、中国の史書の伝統に則り、前例をしっかり確認しながら、表現しようとしていることが判る。

◎それは、陳壽の倭国に対する認識が見てとれる。そのことは、【第一段落】にも、次のようにあった。
  ・倭人在帶方東南大海之中、依山島為國邑。舊百餘國。漢時有朝見者。
  ・無良田、食海物自活、乖船南北市糴。
  ・差有田地、耕田猶不足食。亦南北市糴。
  ・濱山海居、草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之。
判るように、倭人は、決して、農耕の民では無い。文中にもあるように、確かに、農耕も営むけれども、倭人の倭人たる所以は漁労を営み、舟に乗って、南北に交易することろにあったことが判る。そして、そのことは、前漢(紀元前206年~8年)の時代から続いていると言う。

◎つまり、中国と倭国との交流は、何も三世紀に始まったわけではない。それは紀元前の昔から営々と営まれて来た歴史が存在する。たまたま、三世紀に、帯方郡を通じて、倭国から使いがやって来た。それで、陳壽は、改めて、ここで、中国と倭国との関係を述べてみることにしたわけである。それが「魏志倭人伝」なのである。

●この次に、陳壽は、実に興味深い話をする。それが、次の表現となっている。
  ・計其道里、當在會稽、東冶之東。
もちろん、これは、次のように読む。
  ・其の道里を計るに、當に會稽、東冶の東に在るべし。

●会稽は、もちろん、越国の都であった会稽(現在の紹興市)であろう。問題は、東冶である。当時、東冶県が越国には存在したから、この文章が何を意味するのか、多くの人々を悩ませて来た。この文章は、このままでは、意味をなさない。

●ちなみに、東冶県は、現在の福建省閩侯県だとされる。それなら、「東冶の東」は、台湾島となってしまう。しかし、原文は、あくまで、
  ・計其道里、當在會稽、東冶之東。
なのである。

●こういう場合、普通には「大地名+小地名」と並べる。それなら、会稽郡東冶県で、十分考えられる。おそらく、「三国志」が校訂された時に、そういうふうに書き換えられた可能性が高い。

◎当古代文化研究所では、このことを検証するために、これまで、4回、会稽を訪れている。
  ・書庫「江南の秋」:ブログ『紹興~会稽~』
  https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/35858275.html
  ・書庫「舜禹之都:紹興・上虞」:37個のブログ
  https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1221324.html?m=l&p=1
  ・書庫「天上仙都:紹興」:34個のブログ
  https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1228927.html?m=l&p=1
  ・書庫「会稽四歩」:18個のブログ
  https://blogs.yahoo.co.jp/sigureteikamoyama/folder/1280125.html?m=l&p=1

◎同じように、寧波にも、これまで、6回、訪問している。
  ・書庫「寧波漫歩」:65個のブログ
  https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1204055.html?m=l&p=1
  ・書庫「寧波再歩」:35個のブログ
  https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1210154.html?m=l&p=1
  ・書庫「寧波三歩・洛迦山参詣」:34個のブログ
  https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1221590.html?m=l&p=1
  ・書庫「観音信仰の島:普陀山」:ブログ『普陀山から余姚へ』
  https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1228925.html
  ・書庫「寧波五歩:雪竇山」:30個のブログ
  https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1241669.html?m=l
  ・書庫「寧波六歩」:19個のブログ
  https://blogs.yahoo.co.jp/sigureteikamoyama/folder/1304362.html?m=l&p=1

◎このように、何度も会稽や寧波を訪れていると、しみじみ、「魏志倭人伝」が日本人には読めないことを痛感させられる。と言うのは、あまりに、私たち日本人が中国のことを知らないからに他ならない。中国の常識は、日本では非常識なのである。そういう中国の常識の中で書かれたのが「魏志倭人伝」なのである。

◎空間的にもそうだが、加えて、時間的にも、私たちが理解している中国は、あまりに小さく、狭い。陳壽が描く「魏志倭人伝」は、そういう中国でも、空間的にも時間的にも、超越した天才が書いているわけだから、到底、日本人の手に負える代物ではない。そういうことを感じさせられた。

●それでも、何とかして、「魏志倭人伝」を読もうと、奮闘努力するしかない。会稽や寧波へ通い続けて、やっと『會稽東冶之東』の意味するものが見えて来たような気がする。そういうふうにしてしか、「魏志倭人伝」は、読めない。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1914

Trending Articles