○前回、「魏志倭人伝」の第二段落、829字を読んだ。その中で、これまで誰も解決できていない、
・計其道里、當在會稽、東冶之東。
表現が、何を意味するかについて、考えた。
○その結果、次のような結論を導き出すことができた。
「魏志倭人伝」が記録する、
・計其道里、當在會稽、東冶之東。
の「東冶」は「東明」の誤りであって、この舟山群島だとするしかない。ここから東へ600匚圓と、
そこは鹿児島県鹿児島郡十島村宝島である。ここが往時、日本の最南端であった。つまり、倭国の最
南端であった。「魏志倭人伝」が記録する、
・計其道里、當在會稽、東冶之東。
が意味するものは、そういうことである。
●当古代文化研究所では、このことを検証するために、これまで、6回、中国浙江省の舟山群島普陀山を訪れている。
・書庫「海天佛国:普陀山」:31個のブログ
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1204492.html?m=l&p=1
・書庫「普陀山・洛迦山」:19個のブログ
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1210153.html?m=l&p=1
・書庫「寧波三歩・洛迦山参詣」:34個のブログ
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1221590.html?m=l&p=1
・書庫「観音信仰の島:普陀山」:14個のブログ
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1228925.html?m=l
・書庫「寧波五歩:雪竇山」:30個のブログ
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1241669.html?m=l&p=1
・書庫「普陀山巡礼」:62個のブログ
https://blogs.yahoo.co.jp/sigureteikamoyama/folder/1304975.html?m=l&p=1
●同じように、日本側の鹿児島県鹿児島郡十島村宝島へも、3回訪問している。
・書庫「吐火羅の旅」:19個のブログ
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1185562.html?m=l&p=1
・書庫「吐噶喇往還」:30個のブログ
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1205424.html?m=l&p=1
・書庫「小宝島訪問」:16個のブログ
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1221591.html?m=l&p=1
●「魏志倭人伝」を読むと言うことは、机上で、あれこれ思い悩むばかりでは、何も解決しない。「魏志倭人伝」が案内する世界は、時代を超えて、今でも存在する。それなら、実際、そこへ出掛けて、それがどういうものであるかを実見するに如くは無い。中国人である陳寿を理解しない限り、到底、「魏志倭人伝」が読めるはずもない。
○併せて、「魏志倭人伝」第二段落には、次のような記述が見える。
・所有無與儋耳、硃崖同。
この記録も、極めて特殊な記述とするしかない。陳壽が何のために、この記述を行ったか。それが明らかにならない限り、「魏志倭人伝」解読はあり得ない。今回は、この問題を扱ってみたい。
○ここで言う、「儋耳、硃崖」は、現在の海南島だとされる。倭国の風土を記録しているところで、倭国の風土は、ちょうど海南島のそれと同じであると言われても、甚だ困ってしまう。海南島南部の三亜で緯度は東経18度。北部の海口では20度である。
○それに対して、倭国を考えた場合、北部九州の博多で東経33度。南部九州鹿児島で31度。奈良市の緯度は東経34度である。海南島と九州では10度以上の緯度差がある。これを風土として、同等に扱うことは、なかなか難しい。
○ちなみに、中国の寧波や会稽、舟山群島、日本の宝島の緯度は、東経29度で、同じである。陳壽は、「魏志倭人伝」で、何故、海南島と倭国の風土が同じと断じたのであろうか。極めて気になる。
●もちろん、それには、幾つか理由がある。その一つが「魏志倭人伝」に先行する史書の記述の問題である。正史としては、「後漢書」があるけれども、「後漢書」の成立は5世紀になってからだから、3世紀に成立した「魏志倭人伝」より、随分新しいものである。
●したがって、「魏志倭人伝」に先行する正史は「漢書」になる。その「漢書」地理志・粵地に、次のような記述がある。
自合浦徐聞南入海,得大州,東西南北方千里,武帝元封元年略以為儋耳、珠崖郡。民皆服布如單
被,穿中央為貫頭。男子耕農,種禾稻紵麻,女子桑蠶織績。亡馬與虎,民有五畜,山多麈嗷。兵則
矛、盾、刀,木弓弩,竹矢,或骨為鏃。自初為郡縣,吏卒中國人多侵陵之,故率數歲壹反。元帝時,
遂罷棄之。
●今、改めて、「魏志倭人伝」の記事を並べてみると、よく判る。
其風俗不淫、男子皆露紒、以木綿招頭。其衣幅、但結束相連、略無縫。婦人被髪屈紒、作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之。種禾稻、紵麻、蠶桑、緝績、出細紵、縑綿。其地無牛馬虎豹羊鵲。兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃、所有無與儋耳、硃崖同。
◎判るように、「魏志倭人伝」の記述は、「漢書」に則って書かれたものである。そういう点、陳壽はしっかり、中国史書の伝統的書法を保持している。正統的な表現法であることが判る。
◎しかし、海南島と倭国との間には、何ら接点が無い。それを同一視しようとする陳壽の目論見とは、一体、何なのだろうか。極めて、不思議な話である。
◎しかし、前回、話したように、「魏志倭人伝」には、
・男子無大小皆黥面文身。自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。
とあり、倭人には刺青の習慣があり、昔から中国との交流があり、使いが太夫を名乗るなど、中国の文化を保持しているとする。さらに、次のように続ける。
・夏后少康之子封於會稽、斷髪文身以避蛟龍之害。
今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以為飾。
とする。つまり、此処では越国の起源を説き、その都が會稽で、刺青は越国の習俗であるとする。
・計其道里、當在會稽、東冶之東。
表現が、何を意味するかについて、考えた。
○その結果、次のような結論を導き出すことができた。
「魏志倭人伝」が記録する、
・計其道里、當在會稽、東冶之東。
の「東冶」は「東明」の誤りであって、この舟山群島だとするしかない。ここから東へ600匚圓と、
そこは鹿児島県鹿児島郡十島村宝島である。ここが往時、日本の最南端であった。つまり、倭国の最
南端であった。「魏志倭人伝」が記録する、
・計其道里、當在會稽、東冶之東。
が意味するものは、そういうことである。
●当古代文化研究所では、このことを検証するために、これまで、6回、中国浙江省の舟山群島普陀山を訪れている。
・書庫「海天佛国:普陀山」:31個のブログ
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1204492.html?m=l&p=1
・書庫「普陀山・洛迦山」:19個のブログ
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・書庫「寧波三歩・洛迦山参詣」:34個のブログ
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・書庫「観音信仰の島:普陀山」:14個のブログ
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・書庫「寧波五歩:雪竇山」:30個のブログ
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・書庫「普陀山巡礼」:62個のブログ
https://blogs.yahoo.co.jp/sigureteikamoyama/folder/1304975.html?m=l&p=1
●同じように、日本側の鹿児島県鹿児島郡十島村宝島へも、3回訪問している。
・書庫「吐火羅の旅」:19個のブログ
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1185562.html?m=l&p=1
・書庫「吐噶喇往還」:30個のブログ
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1205424.html?m=l&p=1
・書庫「小宝島訪問」:16個のブログ
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1221591.html?m=l&p=1
●「魏志倭人伝」を読むと言うことは、机上で、あれこれ思い悩むばかりでは、何も解決しない。「魏志倭人伝」が案内する世界は、時代を超えて、今でも存在する。それなら、実際、そこへ出掛けて、それがどういうものであるかを実見するに如くは無い。中国人である陳寿を理解しない限り、到底、「魏志倭人伝」が読めるはずもない。
○併せて、「魏志倭人伝」第二段落には、次のような記述が見える。
・所有無與儋耳、硃崖同。
この記録も、極めて特殊な記述とするしかない。陳壽が何のために、この記述を行ったか。それが明らかにならない限り、「魏志倭人伝」解読はあり得ない。今回は、この問題を扱ってみたい。
○ここで言う、「儋耳、硃崖」は、現在の海南島だとされる。倭国の風土を記録しているところで、倭国の風土は、ちょうど海南島のそれと同じであると言われても、甚だ困ってしまう。海南島南部の三亜で緯度は東経18度。北部の海口では20度である。
○それに対して、倭国を考えた場合、北部九州の博多で東経33度。南部九州鹿児島で31度。奈良市の緯度は東経34度である。海南島と九州では10度以上の緯度差がある。これを風土として、同等に扱うことは、なかなか難しい。
○ちなみに、中国の寧波や会稽、舟山群島、日本の宝島の緯度は、東経29度で、同じである。陳壽は、「魏志倭人伝」で、何故、海南島と倭国の風土が同じと断じたのであろうか。極めて気になる。
●もちろん、それには、幾つか理由がある。その一つが「魏志倭人伝」に先行する史書の記述の問題である。正史としては、「後漢書」があるけれども、「後漢書」の成立は5世紀になってからだから、3世紀に成立した「魏志倭人伝」より、随分新しいものである。
●したがって、「魏志倭人伝」に先行する正史は「漢書」になる。その「漢書」地理志・粵地に、次のような記述がある。
自合浦徐聞南入海,得大州,東西南北方千里,武帝元封元年略以為儋耳、珠崖郡。民皆服布如單
被,穿中央為貫頭。男子耕農,種禾稻紵麻,女子桑蠶織績。亡馬與虎,民有五畜,山多麈嗷。兵則
矛、盾、刀,木弓弩,竹矢,或骨為鏃。自初為郡縣,吏卒中國人多侵陵之,故率數歲壹反。元帝時,
遂罷棄之。
●今、改めて、「魏志倭人伝」の記事を並べてみると、よく判る。
其風俗不淫、男子皆露紒、以木綿招頭。其衣幅、但結束相連、略無縫。婦人被髪屈紒、作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之。種禾稻、紵麻、蠶桑、緝績、出細紵、縑綿。其地無牛馬虎豹羊鵲。兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃、所有無與儋耳、硃崖同。
◎判るように、「魏志倭人伝」の記述は、「漢書」に則って書かれたものである。そういう点、陳壽はしっかり、中国史書の伝統的書法を保持している。正統的な表現法であることが判る。
◎しかし、海南島と倭国との間には、何ら接点が無い。それを同一視しようとする陳壽の目論見とは、一体、何なのだろうか。極めて、不思議な話である。
◎しかし、前回、話したように、「魏志倭人伝」には、
・男子無大小皆黥面文身。自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。
とあり、倭人には刺青の習慣があり、昔から中国との交流があり、使いが太夫を名乗るなど、中国の文化を保持しているとする。さらに、次のように続ける。
・夏后少康之子封於會稽、斷髪文身以避蛟龍之害。
今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以為飾。
とする。つまり、此処では越国の起源を説き、その都が會稽で、刺青は越国の習俗であるとする。