○前々回から前回と、「魏志倭人伝」の第二段落、829字を読んできている。その中で、主に問題として来たのが、
・計其道里、當在會稽、東冶之東。
と言う記述であり、
・所有無與儋耳、硃崖同。
であった。
○世の中には、多くの「魏志倭人伝」に関する書物が存在する。しかし、そのほとんどがまやかしであることが多い。特に多いのが考古学者先生たちの著作である。満足に「魏志倭人伝」も読めない考古学者先生たちの邪馬台国論は、聞くに堪えない。
○卑弥呼や邪馬台国は「魏志倭人伝」に書かれた史実に過ぎない。それなのに、「魏志倭人伝」を読まないで、卑弥呼や邪馬台国を論じようと言うのだから、お話にもならない。ところが、考古学者先生たちは大真面目に話される。それに、現代を代表する日本通史の古代編の多くは、そういう考古学者先生たちが書いている。信じられない話だが、本当のことである。
○だから、「魏志倭人伝」の記事、
・計其道里、當在會稽、東冶之東。
・所有無與儋耳、硃崖同。
を論じている著作が何とも少ないことに驚く。この問題を解決しないで、「魏志倭人伝」を読んだと言うことはできない。それくらい、大事な要件なのである。
○この二つの記述から見えて来ることは、倭国が百越の一つだとする陳壽の倭国観である。もっとも、それは、単に陳寿の考えではなくて、伝統的な中国の倭国観でもある。こういうことをさりげなく案内してみせるのも、陳寿一流の芸当なのである。それが中国の史書の作法でもある。
○したがって、読者は、そういう編者の意図をしっかりと汲み取って「魏志倭人伝」を読む必要がある。そうでなくては、陳寿の読者にはなれない。それが中国の史書の作法でもある。
●今回、ここで扱うのは、倭国が百越の一つだとする陳壽の倭国観に従えば、何が見えて来るかと言う話である。「魏志倭人伝」が案内する倭国の表向きの顔は、次のようになる。
∥喨刈狗邪韓國=七千餘里
狗邪韓國→對馬國=千餘里
U馬國→一大國=千餘里
ぐ貘舖□末盧國=千餘里
ニ犀□伊都國=五百里
Π謀墺□奴國=百里
奴國→不彌國=百里
不彌國→投馬國=千五百余里
投馬國→邪馬壹國=八百余里
●この顔を、「魏志倭人伝」から読み解くことは、なかなか難しい。こういうふうに案内しているのは、当古代文化研究所だけである。しかし、「魏志倭人伝」が案内するのは、表向きの顔だけではない。裏側から見る倭国の顔まで、陳壽は案内して見せる。何とも、親切そのものと言うしかない。
・会稽→寧波(100辧
・寧波→舟山群島(150辧
・舟山群島→吐噶喇列島宝島(600辧
・吐噶喇列島宝島→吐噶喇列島悪石島(50辧
・吐噶喇列島悪石島→吐噶喇列島諏訪之瀬島(24辧
・吐噶喇列島諏訪之瀬島→吐噶喇列島中之島(28辧
・吐噶喇列島中之島→吐噶喇列島口之島(14辧
・吐噶喇列島口之島→口永良部島(59辧
・口永良部島→硫黄島(36辧
・硫黄島→邪馬台国(56辧
●こういうことをさりげなく平然と案内してみせるのが陳壽なのである。「魏志倭人伝」を読むと言うことは、そういうことである。なかなか一通りでは済まないのが陳寿なのである。だから、彼の読者は、用心に用心を重ねて、「魏志倭人伝」を読まなくてはならない。
◎これまでのことを整理すると、次のようになる。まずは、倭国三十国の案内からだろう。
【渡海三国】
・狗邪韓国・対馬国・壱岐国
【北九州四国】
・末廬国・伊都国・奴国・不弥国
【中九州二十国】
・斯馬国・巳百支国・伊邪国・都支国・邇奴国・好古都国・不呼国
・姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国・鬼国・為吾国・
・鬼奴国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・烏奴国・(奴国)
【南九州三国】
・投馬国・邪馬台国・狗奴国
◎これだけでも十分と言う気がするが、陳壽は親切丁寧そのものなのである。続けて帯方郡から邪馬台国までの道程をきれいに案内する。
∥喨刈狗邪韓國=七千餘里
狗邪韓國→對馬國=千餘里
U馬國→一大國=千餘里
ぐ貘舖□末盧國=千餘里
ニ犀□伊都國=五百里
Π謀墺□奴國=百里
奴國→不彌國=百里
不彌國→投馬國=千五百余里
投馬國→邪馬壹國=八百余里
◎誰もが、もう十分だろうと思う。しかし、陳壽の親切の押し付けは、さらに続く。
・会稽→寧波(100辧
・寧波→舟山群島(150辧
・舟山群島→吐噶喇列島宝島(600辧
・吐噶喇列島宝島→吐噶喇列島悪石島(50辧
・吐噶喇列島悪石島→吐噶喇列島諏訪之瀬島(24辧
・吐噶喇列島諏訪之瀬島→吐噶喇列島中之島(28辧
・吐噶喇列島中之島→吐噶喇列島口之島(14辧
・吐噶喇列島口之島→口永良部島(59辧
・口永良部島→硫黄島(36辧
・硫黄島→邪馬台国(56辧
◎まだまだあるのかも知れないが、私の能力では、これくらいが限界である。恐るべし、陳寿。読めば読むほど、彼の偉大さは増すばかりである。中国では、彼の評価は頗る高い。
◎それに対して、日本での評価は、それ程でもない。逆に「魏志倭人伝」が読めない日本人は、彼の「魏志倭人伝」を酷評して止まない。とんでもない話である。日本には彼ほどの史家は、有史以来、一人も居ない。
◎「魏志倭人伝」を読むには、会稽や寧波で読むに如くは無い。会稽も寧波も知らないで、「魏志倭人伝」を読もうと言うのは、それは無理な話である。そういうことが、なかなか理解されない。だから、「魏志倭人伝」を読むことができない。
◎日本人は元寇(1274年・1279年)のことはよく知っている。今から740年も昔の話なのに。しかし、日本人は倭寇の話は、ほとんど知らない。そういうことを、なかなか学校では教えてくれない。
◎中国を訪れていると、意外なところに倭寇の痕跡を見て驚く。それは舟山群島にも、寧波にも、会稽にも、南京にだってあるのだから、呆れると言うしかない。当時、南京は中国の都だったのである。
◎倭寇の襲来は、一回や二回ではない。それも凄まじいものがあり、舟山群島は、しばらく、倭寇に占領され、放棄された過去まで存在する。日本人は、そういうことを何も知らない。中国を歩いていると、そういう記念碑を見て、恥ずかしくなる。何も立派な記念碑では無いが、普通に道端に建っている。
◎もちろん、そういう記録は、遥か後世のものである。しかし、そういうものが普通に存在すると言うことは、倭国と中国との関係性を考えさせられる。良いにつけ悪いにつけ、相当古い時代から、倭国と中国とは密接な関係にあったことだけは間違いない。
◎「魏志倭人伝」を読むと言うことは、そういうことを理解することである。何故なら、「魏志倭人伝」の編者である陳寿が、そういう態度で「魏志倭人伝」を書いているからである。陳壽が、決して興味本位で「魏志倭人伝」を書いていないことに十分留意する必要がある。
◎前にも触れたように、陳壽の倭国及び倭人に対する評価は、次のようであることが判る。
雖夷狄之邦,而俎豆之象存。
中國失禮,求之四夷,猶信。
日本語では、こうなる。
・倭国は野蛮人の国とされるけれども、礼儀作法を身に付けた人々が住んでいる。
そういう礼儀作法はすでに中国では失われていると言うのに。そういう中国が失った礼儀作法を
夷狄に求める。信じられないかも知れないが、本当の話である。
◎あれ程、誇り高い中国人が『雖夷狄之邦,而俎豆之象存。』と褒め称え、『中國失禮,求之四夷,猶信。』と卑下することは、考えられない。それも中国の正史の中での表現である。
◎そんな「魏志倭人伝」を、日本人が読めないでどうする。何とも陳壽に失礼な話ではないか。当古代文化研究所では、そういうふうに考え、こういうふうにして、案内している。