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再々度、紀伊山地の霊場と参詣道について

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○前回、『再び、紀伊山地の霊場と参詣道について』を書いて、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」がどのようなものかについて、触れようとした。ところが、文化庁の「世界文化遺産オンライン」の中の『紀伊山地の霊場と参詣道』の記述が、あまりにも乱暴で、杜撰だから、その話が長引いてしまった。

○どう考えても、文化庁の「世界文化遺産オンライン」の中の『紀伊山地の霊場と参詣道』の記録は、問題がある。何故、あれ程偏向で恣意的な表現になってしまったのだろうか。大いに問題がある。それが世界遺産と言うものの案内・説明にあることに、問題がある。そういうものは、もっとも一般的な案内・説明をするのが普通だろう。


○今回は、それこそ、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」がどのようなものかについて、考えてみたい。改めて、文化庁が案内する『紀伊山地の霊場と参詣道』を「世界文化遺産オンライン」で見てみると、次のように、案内・説明している。
   このような特有の地形及び気候、植生などの自然環境に根ざして育まれた多様な信仰の形態を背景
  として、「吉野・大峯」、「熊野三山」、「高野山」と呼ばれる顕著な三つの霊場とそれらを結ぶ「参
  詣道」が形成されました。

○つまり、文化庁が『紀伊山地の霊場と参詣道』として案内する霊場は、「吉野・大峯」、「熊野三山」、「高野山」と呼ばれる顕著な三つの霊場であることが判る。それを次のように案内している。
■霊場「吉野・大峯」(よしの・おおみね)
 紀伊山地の最北部にあり、三霊場の中で最も北に位置しています。農耕に不可欠の水を支配する山あるいは金などの鉱物資源を産出する山として崇められた「金峯山」を中心とする「吉野」の地域と、その南に連続する山岳修行の場である「大峯」の地域からなっています。修験道の中心的聖地として発展し、10世紀の中頃には日本第一の霊山として中国にもその名が伝わるほどの崇敬を集めるようになりました。日本中から多くの修験者が訪れ、「吉野・大峯」を規範として、全国各地に山岳霊場が形成されていきました。<構成資産>
吉野山(よしのやま)、吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ)、金峯神社(きんぷじんじゃ)、金峯山寺(きんぷせんじ)、吉水神社(よしみずじんじゃ)、大峰山寺(おおみねさんじ)

■霊場「熊野三山」(くまのさんざん)
 紀伊山地の南東部にあり、相互に20~40kmの距離を隔てて位置する「熊野本宮大社」、「熊野速玉大社」、「熊野那智大社」の三つの神社と「青岸渡寺」及び「補陀洛山寺」の二つの寺院からなっています。三つの神社はもともと個別に自然崇拝の起源を持っていたと考えられます。10世紀後半は他の二社の主祭神を相互に合祀するようになり、以来「熊野三山」あるいは「熊野三所権現」と呼ばれ、多くの皇族・貴族の崇敬を集めるようになりました。「青岸渡寺」及び「補陀洛山寺」は、「熊野那智大社」と一体となって発展してきた寺院で、神仏習合の形態をよく保っているものです。<構成資産>
熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ)、熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)、熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)、青岸渡寺(せいがんとじ)、那智大滝(なちのおおたき)、那智原始林(なちげんしりん)、補陀洛山寺(ふだらくさんじ)

■霊場「高野山」(こうやさん)
 「吉野・大峯」の西南西約30kmに位置し、空海が唐からもたらした真言密教の山岳修行道場として816年に創建した「金剛峯寺」を中心とする霊場です。「金剛峯寺」の伽藍は、真言密教の教義に基づき本堂と多宝塔を組み合わせた独特のもので、全国の真言宗寺院における伽藍の規範となっています。また、「丹生都比売神社」の祭神は、高野山一体の地主神で、空海にこの地を譲った神と伝えられ、「金剛峯寺」の鎮守として祀られたものです。<構成資産>
丹生都比売神社(にうつひめ)、金剛峯寺(こんごうぶじ)、慈尊院(じそんいん)、丹生官省符神社(にうかんしょうふ)

■参詣道(さんけいみち)
 三霊場に対する信仰が盛んになるにつれて形成され、整備された「大峯奥駈道」、「熊野参詣道」、「高野参詣道」と呼ばれる三つの道です。これらの道は、人々が下界から神仏の宿る浄域に近づくための修行の場であり、険しく清浄な自然環境のなかに今日まで良好な状態で遺り、沿道の山岳・森林と一体となった文化的景観を形成しています。「大峯奥駈道」は、「吉野・大峯」と「熊野三山」の二大霊場を結ぶ山岳道で、修験道の最も重要な修行の場です。「熊野参詣道」は、「熊野三山」に参詣する道で、京都方面からの参詣のために最も頻繁に使われた「中辺路」、「高野山」との間を結ぶ「小辺路」、紀伊半島の南部の海沿いを行く「大辺路」、同じく南西部の海沿いを行く「紀伊路」、伊勢神宮との間を結ぶ「伊勢路」からなっています。「高野参詣道」は、金剛峯寺北側の紀ノ川から高野山に至る経路、霊場高野山を囲繞する経路などからなる参詣道です。<構成資産>
大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)<玉置神社(たまきじんじゃ)を含む>、熊野参詣道(くまのさんけいみち)≪中辺路(なかへち)<熊野川(くまのがわ)を含む>・小辺路(こへち)・大辺路(おおへち)・伊勢路(いせじ)<七里御浜(しちりみはま)、花の窟(はなのいわや)を含む>≫、高野参詣道(こうやさんけいみち)
  http://bunka.nii.ac.jp/special_content/hlinkA

○『紀伊山地の霊場と参詣道』と言う名称自体が、何とも珍妙である。もともと、「吉野・大峯」、「熊野三山」、「高野山」は、それぞれの聖地として名高い。吉野詣でがあり、熊野詣でや高野山参りがそれぞれ独自に存在した。それを一括してまとめようと目論んだのが『紀伊山地の霊場と参詣道』ではないか。

○つまり、吉野山・熊野三山・高野山は、それぞれまるで別個の霊場であった。しかし、それでは世界遺産として登録するには、スケールがあまりに小さい。それをまとめることに拠って、世界遺産に相応しいものとなると考えた。

○だから、『紀伊山地の霊場と参詣道』などと言う珍妙な名が付された。ところが、この三つの霊場は、もともと一つの概念であったのである。何も、わざわざ、『紀伊山地の霊場と参詣道』などと言う、俗世な名を付されなくても良い。それが神代三山陵の先坣僑位である。

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