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大隅国の成立

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○インターネットで、いろいろ調べていたら、次のページがヒットした。
      大隅国の成立
   大隅国が誕生したのは,713(和銅6)年です。はじめ,日向国のなかから,肝坏・贈於・大隅・姶良
  の四郡をさいて分立されました。
   薩摩国同様,朝廷はここでも命令に服さぬ隼人の指導という名目で他国の人々を移住させていま
  す。移住させられたのは,豊前国の民200戸など約5千人。移住地は,国の役所(国衙)が置かれた今
  の霧島市国分府中周辺ではないかと推測されています。
   移住地には,新しく桑原郡が設けられ,のち,同じく新設された菱刈郡とそれまで一国とみなされ
  ていた種子嶋の廃止にともって編入された馭謨郡・熊毛郡を加えて,大隅国は8つの郡をもつ国とな
  りました。
  http://www.pref.kagoshima.jp/ab23/pr/gaiyou/rekishi/genshi/osumikoku.html

○何しろ、鹿児島県が案内する「大隅国の成立」である。大いに期待するしかない。そう思って読んでみたが、何とも簡単な概説だけで、箸にも棒にも掛からぬ代物となっている。どうして、このような、つまらないものを案内するのかが、よく判らない。

○それは、次のウィキペディアフリー百科事典が載せる大隅国と比べてみると、よく判る。
      大隅国
   大隅国(おおすみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。
   『古事記』の国産み神話においては、筑紫島(九州)の4面に筑紫国、豊国、肥国、熊曽国が見える。
   古代の南九州は『古事記』『日本書紀』の「日向神話」と呼ばれる神話の舞台となった。この中で、
  アマテラスの孫のニニギが高千穂に降臨し(天孫降臨)、子のホオリが兄・ホデリを懲らしめた旨と
  ともに兄の子孫の隼人が今も天皇に仕える由来だと述べ(山幸彦と海幸彦)、ホオリの子・ウガヤフ
  キアエズは初代天皇・カムヤマトイワレビコ(神武天皇)の父である旨を記している。のち、神武天
  皇は日向から東征に赴くこととなる(神武東征)。
   現在、これらの日向神話は歴史的事実そのままとは考えられておらず、その由来には諸説がある。
  特に『古事記』『日本書紀』が成立するまで、すなわち7世紀後半から8世紀前半の南九州における対
  隼人の政治情勢との密接な関係が指摘される。隼人が名を表すのは天武天皇の時代からで、7世紀末
  から8世紀前期に4回の反乱を起こしている。そして天皇家による南九州における統治を正当化し、隼
  人が服属すべき理由を過去にさかのぼって説明するものと考えられている。
   7世紀中期以降に律令制の成立に伴って、現在の鹿児島県の本土部分と宮崎県を含む広域に、日向
  国が成立した。
   大宝2年(702年)8月1日の薩摩・多褹叛乱を契機に、同年、日向国を割いて唱更国・多褹国として
  分立した。
   その流れの中で和銅6年(713年)4月3日、日向国の肝杯郡、囎唹郡、大隅郡、姶羅郡の四郡、現在
  の鹿児島県本土の東部が大隅国として分立したのが、大隅国の始まりとされる。
   数年の内に、囎唹郡を割いて桑原郡(姶良郡湧水町周辺)が、天平勝宝7年(755年)にさらに囎唹
  郡を割いて菱苅郡(現在の伊佐市周辺)が設けられ、六郡となる。
  https://ja.wikipedia.org/wiki/大隅国

○ウィキペディアフリー百科事典でさえ、これくらいの分量を割いて大隅国について、言及している。その記述内容には、大いに問題があることは間違いない。それでも、これだけ表現していることは、大いに評価したい。

○それに比べて、鹿児島県の案内のお粗末さには、驚き、呆れる。鹿児島県には、本気で「大隅国の成立」を記述しようという積極的意志があるとは、到底、思えない。その文化行政のお粗末さは、何とも、残念なものである。

○気になるので、もう少し、いろいろ、見てみたい。

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