○前回、鹿児島県が案内する『大隅国の成立』について、紹介した。それは、「ホーム > 県政情報 > かごしまの紹介 > かごしまの概要 > 歴史・文化 > 原始・古代 > 大隅国の成立」と言う並びになっているものであった。その項目な中に、『薩摩国の成立』もあったので、ついでに見ておきたい。
薩摩国の成立
702(大宝2)年,薩摩国が設置され,造籍が行われました。薩摩国司は唱更国司(辺境の守備にあた
る国司)とも呼ばれ,同年彼らは国内要害の地に柵・戍の設置を許可されています。
唱更国司は,対隼人政策の最前線に位置づけられていた薩摩国と日向国(のちの大隅国を含む)国
司のことであると考えられます。
薩摩国は13郡から成立します。そのうち川内川の北部,高城郡と出水郡は移住者・外来者の居住地
で「非隼人郡」とされ,原住民である隼人の住む世界はその南部や東部の11郡に限られています。
国の役所(国衙)は,非隼人の地,高城郡(今の薩摩川内市)に置かれました。
http://www.pref.kagoshima.jp/ab23/pr/gaiyou/rekishi/genshi/satuma.html
○驚くことに、鹿児島県がウェブサイトとして案内する『薩摩国の成立』は、これが全てである。続きには、
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3:見つけにくかった
とあるけれども、幾らなんでも、こんなお粗末なウェブサイトは無い。こんな僅かな情報で、役に立つはずもないものに、
・このページの情報は役に立ちましたか?
は無いだろう。
○民間のウィキペディアフリー百科事典でさえ、次のように案内している。
薩摩国
薩摩国(さつまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。
『古事記』の国産み神話においては、筑紫島(九州)の4面に筑紫国、豊国、肥国、熊曽国が見える。
古代の南九州は『古事記』『日本書紀』の「日向神話」と呼ばれる神話の舞台となった。この中で、
アマテラスの孫のニニギが高千穂に降臨し(天孫降臨)、子のホオリが兄・ホデリを懲らしめた旨と
ともに兄の子孫の隼人が今も天皇に仕える由来だと述べ(山幸彦と海幸彦)、ホオリの子・ウガヤフ
キアエズは初代天皇・カムヤマトイワレビコ(神武天皇)の父である旨を記している。のち、神武天
皇は日向から東征に赴くこととなる(神武東征)。
現在、これらの日向神話は歴史的事実そのままとは考えられておらず、その由来には諸説がある。
特に『古事記』『日本書紀』が成立するまで、すなわち7世紀後半から8世紀前半の南九州における対
隼人の政治情勢との密接な関係が指摘される。隼人が名を表すのは天武天皇の時代からで、7世紀末
から8世紀前期に4回の反乱を起こしている。そして天皇家による南九州における統治を正当化し、隼
人が服属すべき理由を過去にさかのぼって説明するものと考えられている。
7世紀中期以降に律令制の成立に伴って、現在の鹿児島県の本土部分と宮崎県を含む広域に、日向
国が成立した。
大宝2年(702年)8月1日の薩摩・多褹叛乱を契機に、現在の鹿児島県本土の西部が、10月3日まで
に唱更国(唱更 = はやひと/はやと/しょうこう)に分立したのが、薩摩国の始まりである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/薩摩国
○このウィキペディアフリー百科事典の記述そのものには、大いに疑問がある。しかし、ウィキペディアフリー百科事典がこのように、丁寧な作業をしていることは評価したい。鹿児島県とは雲泥の差がある。どうして、鹿児島県が上記のようないい加減なウェブサイトを案内しているかが、よく判らない。情報氾濫の時代に、こんな貧しいウェブサイトも珍しい。