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李白:山中問答

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○黄山の文学を案内しようとする際、第一に挙げるべきは、何と言っても、やはり李白であろう。その李白に「山中問答」の名詩がある。

    山中問答
        李白
  問余何意棲碧山    余に問ふ 何の意ありてか碧山に棲むと
  笑而不答心自閑    笑って答へず心自から閑なり
  桃花流水杳然去    桃花流水杳然として去る
  別有天地非人間    別に天地の人間に非ざる有り

○李白「山中問答」詩をインターネットで検索すれば、様々な訳があって面白い。いくつか紹介したい。

  ∥人は私に問う、どんなつもりで碧山に棲んでいるのかと、私は笑って答えない、心のなかはおの
  ずから静かなのだ、桃花が流れる水に落ちてはるか遠くまで去っていく、ここにこそ俗世間とは異な
  った別世界があるのだ。
  誰かが私に、君はどういうわけでこんなみどり深い山に棲んでいるのかと尋ねる。
  そんな質問に私は笑っているだけだ。そんな俗人の問いかけにはおかまいなくのどかな気持ちである。
  桃の花びらが水に浮かんで、はるかに奥深いところに流れてゆく。
  ここには人間世界とはちがった別天地があるのだ。
  「どういう気持ちでこんな緑深い山奥に住んでいるのか」人が私に尋ねる。
  私は笑うばかりで答えない。心はどこまでものびのびしている。
  桃の花びらを浮かべ、水はどこまでも流れていく。
  ここは俗世間とは違う、別天地だ。
  せ海棒海爐錣永垢れるけれど
  答える言葉もみつかりゃしない
  ごらんなさいなこの天地には
  ひとの世にないものがある
  タ佑六笋法△匹ΔいΔ弔發蠅任海里茲Δ覆澆匹蟷咳暴擦爐里と尋ねる。
  わたしは笑って答えない。他の人が何と思おうと私の心はゆったりとのどかである。
  見給え、美しい桃の花びらが清らかに流れる水に浮かんで、はるか遠くに流れ去っていくのを。
  このような様子を見るにつけ俗世間を離れた別の天地があるということを痛感するのである。
  人は私に、そなたは何の意味があってそんな緑深い山中に住んでいるのか、と問うが、
  私は笑ってその問いには答えない。私の心は長閑(のどか)である。
  谷川の水面に浮かぶ桃の花びらが遠くまで流れ去って見えなくなる。
  此処は俗世間とは異なる別天地なのである。私は此処に独り住むことを楽しんでいるのである。
  Хに問うが,なにゆえ青い山の中に住んでいるのか
  笑って答えないが,心は自ずから静かだ
  桃の花,流れる水,その奥深くに分け入れば
  俗世とはまた別の天地があるさ
  ┿笋北笋Α△匹鵑糞せ舛任海領仗爾せ海涼罎暴擦鵑任い襪里と
  私は笑うだけで答えないが、心は閑かでのびやかだ。
  桃の花が、流れる水に散りかかり遙か遠くに去っていく。
  ここにこそ、俗世間とは違った別天地があるのだ。

○李白「山中問答」詩の冒頭に、
  問余何意棲碧山    余に問ふ 何の意ありてか碧山に棲むと
とあるものだから、誰もが困ってしまう。李白は放浪の詩人なのである。この詩を読むと、詩の内容と詩人李白との違和感を誰もが抱く。それで誰もが混迷に陥り、上記のような訳となってしまう。

○それは、本場中国でも同じであって、中国では李白「山中問答」詩の「碧山」に、三説がある。
  1、湖北省安陸
  2、黄山
  3、蕪湖小格里自然風景區

○諸事情を勘案すれば、李白「山中問答」詩の「碧山」は、黄山とするしかない。詩中の『余』も李白ではあり得ない。何故なら、李白が長期間、碧山に棲んだこと自体が無いのだから。

○だから、李白「山中問答」詩は、仮託の詩だと言うことが判る。『余』は李白ではなく、胡公暉であろう。そう読むと、李白「山中問答」詩がよく理解される。

  【原文】
      山中問答
          李白
    問余何意棲碧山
    笑而不答心自閑
    桃花流水杳然去
    別有天地非人間

  【書き下し文】
    余に問ふ、何の意ぞ、碧山に棲むは。
    笑つて答へず、心自から閑なればなり。
    桃花流水、杳然として去る。
    別に天地の人間に非ざる有り。

  【我が儘勝手な私訳】
    黄山山民である胡公暉に、こんな山の中にどうして住んでいるのかと、誰もが問う。
    胡公暉はただ笑うばかりで何も答えない、何故なら彼にはその理由が見付からない。
    黄山では桃の季節になれば、自然と桃の花が咲くし、
      谷川の流れは、何時だって尽きることなく流れ続けている。
    黄山には、私が生活するのに十分過ぎるものが存在するから、
      私はここに居ると答えるしかないのだ。

○なかなか詩を正確に理解することは難しい。昨年6月に黄山を訪れた。まさに「碧山」と形容するに相応しい山容であった。こんなところに住んでいるのは、もちろん、常人ではあり得ない。当然、胡公暉は道士であり、仙人を目指している人物である。そういう胡公暉に対する羨望と憧憬が李白に存在することは間違いない。それが李白「山中問答」詩である。

○詩人が遙か高所に居ることを忘れてはなるまい。そういう詩人を巷間に引きずり出したところで、仕方があるまい。自らが高所に上る積極的意志が無い限り、なかなか詩は理解出来ない。

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