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Channel: 古代文化研究所
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投馬国の風景

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○前々回が『邪馬台国の風景』、前回は『狗奴国の風景』と見て来た。こうなると、やはり、『投馬国の風景』も見なければいけない。今回は、そういう話をしたい。

○『邪馬台国の風景』が邪馬台国三山であり、『狗奴国の風景』は神代三山陵であった。ともに、これほど有名なものはないと言われるくらいのものである。それに対応するほどの風景が、果たして、投馬国に存在するのであろうか。

○一つのヒントとなる話が「日本書紀」景行天皇紀に記されている。
   十七年の春三月の戊戌の朔己酉に、子湯縣に幸して、丹裳小野に遊びたまふ。時に東を望して、
  左右に謂りて曰はく、「是の國は直く日の出づる方に向けり」とのたまふ。故、其の國を號けて
  日向と曰ふ。是の日に、野中の大石に陟りまして、京都を憶びたまひて、歌して曰はく、
    愛しきよし 我家の方ゆ 雲居立ち来も
    倭は 國のまほらま 畳づく 青垣山 籠れる 倭し麗し
    命の 全けむ人は 畳薦 平群の山の 白橿が枝を 髻華に挿せ 此の子
  是を思邦歌と謂ふ。

○景行天皇は第12代天皇であるからして、時代は相当下ることになる。しかし、日向地名起源説話としては、有名な話である。また、「倭は國のまほらま」和歌を倭建命では無くて、景行天皇作としていることも注目に値する。

○この日向地名起源説話が景行天皇紀に登場することが大事なのではないか。景行天皇の御代に、子湯縣丹裳小野あたりが、ようやく朝廷の支配下に入ったことを意味すると判断できる。つまり、それ以前には、子湯縣丹裳小野あたりは未開の地でしかなかったと思われる。

○景行天皇が朗々と詠じる和歌、
  愛しきよし 我家の方ゆ 雲居立ち来も
は片歌である。「我家の方ゆ」とあることから、子湯縣丹裳小野あたりから、それ程遠くないところに景行天皇の家は存在した。そうでなくては、こういう詠み方はできない。

○その景行天皇の居住地は倭と言う。その倭について、さらに景行天皇は続けて詠じる。
  倭は 國のまほらま 畳づく 青垣山 籠れる 倭し麗し
この歌は「古事記」が倭建命の絶唱としていることから、富に有名である。伊勢國能褒野で詠じたとある。当古代文化研究所では、2010年4月に、伊勢國能褒野を訪れ、倭建命の白鳥陵と、倭建命能褒野墓の両方へ、参詣を済ませている。
  ・書庫「大和は国のまほろば」:ブログ『倭建命の白鳥陵』
  https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/31797767.html
  ・書庫「大和は国のまほろば」:ブログ『倭建命能褒野墓』
  https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/31854656.html

○「古事記」と「日本書紀」の『倭は國のまほらま』和歌の扱い方の違いは、極めて興味深い。話が長くなるのも困るので、結論だけを案内すれば、真実に近いのは「日本書紀」の方ではないか。なぜなら「古事記」の方は、倭建命の歌物語一代記として、脚色されている感がある。それに、何より、和歌に臨場感が存在するからである。

○つまり、『倭は國のまほらま』和歌が詠じられた子湯縣丹裳小野あたりから、何が見えるかと言うことが問題となる。もちろん、それは、子湯縣丹裳小野あたりへ出掛け、実際、その風景を見ないと判らない。

○まず、子湯縣丹裳小野の位置から確認しておきたい。子湯縣丹裳小野が存在するところは、日向国国府の所在地に隣接する。つまり、「日本書紀」の子湯縣丹裳小野の記述は、日向国国府で行われていることになる。景行天皇の時代に、日向国国府あたりがどういう状況であったかを知ることができる。

○「日本書紀」の子湯縣丹裳小野の記述から判ることは、日向国は、もともと、もっと西側の領域であった。それが景行天皇の時代に、ようやく、子湯縣丹裳小野まで拡大された。そういうことだろう。

○その日向国の東側の境界は、長い間、耳川までであったことが、耳川の名から明らかとなる。耳川の河口が美々津である。美々津は長い間、日向国の港として栄えた。それは江戸時代まで、続いている。

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