Quantcast
Channel: 古代文化研究所
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1914

投馬国の風景(続き)

$
0
0
○前回は、ブログ『投馬国の風景』と題して、「日本書紀」景行天皇紀が載せる景行天皇の御歌、
  愛しきよし 我家の方ゆ 雲居立ち来も
  倭は 國のまほらま 畳づく 青垣山 籠れる 倭し麗し
の話を書いた。しかし、真実の投馬国を代表する風景としては、ちょっと小さい気がしてならない。それに、時代が景行天皇の御代であっては、あまりに新しい。そういう意味では、『投馬国の風景』なのだけれども、ちょっと物足りない。

○「日本書紀」景行天皇紀が案内するように、第12代天皇である景行天皇のころに、日向国は東進して、ようやく子湯縣丹裳小野あたりまで達していたことが判る。したがって、それ以前は、日向国の東境は、ずっと西に存在していたことになる。

○そういう日向国の概念を歴史学者先生は、まるでご存じない。さも昔から日向国府が児湯郡に存在していたかのように錯覚している。そういう本来の日向国の概念を知ることは、思いの外、難しい。ここで言う『投馬国の風景』は、三世紀の風景だと言うことに留意する必要がある。

○そうすると、投馬国=日向国の概念も、随分小さいものとなる。ここで、念の為、ウィキペディアフリー百科事典で日向国を確認しておきたい。
      日向国
   日向国(ひゅうがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。
   古代では、九州本島は、「筑紫島・筑紫洲(つくしのしま)」(古事記・日本書紀)と呼ばれていた。
   5、6世紀のヤマト政権には、筑紫国・豊国・肥国・熊曽国の四区分に観念されていた。これは九州
  成立以前の政治的区分である。
   7世紀中期以降、ヤマト政権が律令制を取り入れるにあたって西海道の一部となり、日向国は成立した。
   成立当初は現在の宮崎県と鹿児島県の本土部分を含む広域に渡っていた。
   大宝2年(702年)の薩摩・多褹叛乱を契機に、現在の鹿児島県部分の西部が唱更国(後の薩摩国)
  として分立した。
   その後、和銅6年(713年)4月3日に肝杯郡、贈於郡、大隅郡、姶羅郡(現代の姶良郡とは別)の4
  郡が大隅国として分立した。以後、明治初期まで日向国の郡構成(臼杵郡、児湯郡、宮崎郡、那珂
  郡、諸県郡の5郡)に変化はなかった。
  https://ja.wikipedia.org/wiki/日向国

○このような説明を読むと、日向国が中心で、そこから地方が分離したかのように思われるかもしれない。しかし、日向国の歴史を遡る限り、最も進歩的な地域は薩摩半島であり、それに続くのが大隅半島であり、もっとも後進国が日向地域であることが判る。第12代天皇の景行天皇の御代に、まだ児湯郡が未開の地であったことになる。

○であれば、三世紀の日向国は諸県郡、宮崎郡、那珂郡しかなかったのではないか。もちろん、その中心が諸県郡であったことは間違いない。そう考えると、『投馬国の風景』とは、諸県郡のものだとするしかないわけである。

○その諸県地名が何を意味するか。現在、都城盆地と称されることが多いけれども、本来、ここが諸県盆地であることは言うまでもない。この地を代表する風景は何か。それは誰が何と言おうと霧島山高千穂峰だとするしかない。

○諸県盆地でこそ、霧島山高千穂峰は、その秀麗な山容を誇る。諸県盆地でなくては、霧島山=高千穂峰と言う発想は生まれない。山は見る方角で、まるで違う様相を見せる。

○我が家も、諸県盆地の一角にある。諸県盆地では、誰もが我が家から見る霧島山高千穂峰が最も美しいと自慢する。霧島山高千穂峰が見えるところに、家を建てるし、お墓も霧島山を望むところに作る。それが諸県盆地の常識である。

○結論を言うと、『投馬国の風景』とは、諸県盆地から見る霧島山高千穂峰である。諸県盆地からは何処からでも霧島山高千穂峰を見ることができる。それは実に様々な様相を見せる。そしてそれはそれぞれに皆美しい。

○敢えて、諸県盆地から見る最も美しい霧島山高千穂峰は、何処から見えるかと言うと、それは鹿児島県曽於市末吉町から見る霧島山高千穂峰だとするしかない。なぜなら、ここが諸県地名の起源だからである。日向国の中心が諸県郡であった以上、それは覆らない。

○鹿児島県曽於市末吉町は日向国ではないし、諸県郡でもないではないか。そうおっしゃる方がいらっしゃるかもしれない。しかし、鹿児島県曽於市末吉町は、昔から間違いなく諸県郡なのである。と言うか、諸県郡の中心が鹿児島県曽於市末吉町なのである。その証拠に、諸県地名の起源が鹿児島県曽於市末吉町にある。

○諸県郡の話をするのに、諸県地名の起源くらい、考えて話すべきだろう。諸県地名の起源も判らないで、諸県郡の話をしたところで、仕方のない話である。

○しかし、諸本を見たところで、何処にも諸県地名の起源は無い。多くの県(あがた)があったので、諸県と言う。そんな出鱈目を信じる人は誰も居ない。それは何処にも県(あがた)が存在していないからである。

○当古代文化研究所では、詳細な検証を加えて、すでに諸県地名の起源を解明している。話は長くなるので、以下のブログを参照していただくしかない。
  ・書庫「投馬国はどんな国家だったか」:ブログ『諸県地域』~2015年3月24日~
  https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/39521076.html
  ・書庫「投馬国はどんな国家だったか」:ブログ『諸県とは何か』~2015年3月25日~
  https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/39523432.html
  ・書庫「投馬国はどんな国家だったか」:ブログ『諸県君の信仰』~2015年3月26日~
  https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/39525583.html
  ・書庫「投馬国はどんな国家だったか」:ブログ『諸県のシンボル』~2015年3月27日~
  https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/39527458.html
  ・書庫「投馬国はどんな国家だったか」:ブログ『諸県君と日向国造』~2015年3月28日~
  https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/39529806.html
  ・書庫「投馬国はどんな国家だったか」:ブログ『諸県君と日向国』~2015年3月29日~
  https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/39531551.html

○結果、鹿児島県曽於市末吉町にある『二之方』地名が諸県地名の起源であることが判る。『二之方』を「もろかた」と読むのである。それはすなわち、水分(みくまり)であり、分水嶺である。そこに鎮座まします神社が住吉神社と言うのも興味深い。

○鹿児島県曽於市末吉町二之方には二つの大きな河川が存在する。一つは大淀川と言い、金御岳(鹿児島県曽於市末吉町南之郷)から、諸県盆地を流れて宮崎平野へと注ぐ一級河川である。もう一つは菱田川と言い、霧島市福山町佳例川の荒磯岳から曽於市岩川町から末吉町へと流れ、志布志市松山町を経て、曽於郡大崎町で志布志湾へと注ぐ二級河川である。その分水嶺となっているのが鹿児島県曽於市末吉町二之方である。

○末吉町二之方では、大淀川と菱田川との間は3劼らいである。それが一方は日向灘へと流れ、もう一方は志布志湾へと注ぐ。そういう分水嶺が諸県地名の起源となっている。これは、もちろん、当古代文化研究所の研究成果の一つであることは言うまでもない。

○こういう分水嶺信仰は日本各地に存在する。有名なのは信濃国の諏訪大社であり、大和国吉野山の水分神社などがある。諸県もそういう信仰のひとつである。

○鹿児島県曽於市末吉町から望む霧島山高千穂峰は、何処から見る霧島山高千穂峰よりも凄い。霧島山がそのまま高千穂峰である所以がここにはある。それは霧島山の顔が高千穂峰だと言うことである。そういうふうに霧島山高千穂峰は眺めるものだと、ここで初めて理解される。

○たかだか、山一つ眺めるだけだが、それにも礼儀作法が存在する。そんなことは信仰に生きた時代の者にしか感得できないことなのかもしれない。そういうものを鹿児島県曽於市末吉町では、体得できる。是非、お出掛けを。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1914

Trending Articles