○秦淮河を挟んで、江南貢院と富楽院は向かい側に存在したとある。と言うことは、現在、南京白鹭宾馆ホテルが存在するところあたりが、富楽院のあったところとなる。偶々、私が南京で宿泊先に選んだのが南京白鹭宾馆ホテルであった。
○私は下町のごみごみしたところが好きである。折角、南京に泊まるのに、どうせなら、最も南京らしいところに泊まりたいと思った。それでいろいろ調べると、孔子廟界隈が最も賑やかだと言うから、そのあたりに宿を求めた。それが南京白鹭宾馆ホテルであった。
○南京に出掛ける前には、江南貢院や富楽院については、何も知らなかった。偶々、ホテルが南京白鹭宾馆ホテルで、ホテルの脇を秦淮河が流れている。その秦淮河に架かっている橋が文源橋だった。
○その文源橋のたもとに江南貢院が存在し、いろいろ調べると、その対岸が富楽院(旧院)だと言う。何故か、中国の検索エンジン百度『百度百科』には、富楽院(旧院)項目が無い。
○それで、いろいろと調べているうちに、『お茶の水女子大学教育・研究成果コレクション "TeaPot"』の中に、陳羿秀「 江戸前期と明末清初における遊廓文化について」と言う論文を見付けた。これがまた、なかなか面白い。冒頭文には、次のようにある。
中国では唐代にすでに遊廓ができていた。唐代は妓女たちが大活躍した時代であり、明代の名妓文
化の芽生えは唐代であるといっても過言ではないであろう。その根拠は『全唐詩』にある。49403 首
の詩が収められた『全唐詩』には、妓女に関しての詩が二千首もある。また妓女が自分で作った詩も
136 首ある。ここから鑑みるに、唐代から、中国の妓女と文学の関係は切っても切り離せないものに
なったともいえよう。そして明末清初になって、その妓女文化は頂点に達し、名妓と文人のロマンス
もたくさん生まれた。日本の初の遊廓が成立したのは豊臣秀吉の時代で、日本では遊廓を造った際、
中国の遊廓を手本にした可能性はかなり高い。中国の遊廓を手本にした可能性は無いとしても、やは
り何かの影響を受けたのではないかと思われる。
○この論文の中に、『秦淮の遊廓の成立と発展』の項目が存在する。
3.2 秦淮の遊廓の成立と発展
明太祖は建国に当たり、当時の首都であった南京の乾道橋に富楽院という公的な遊廓を設け、そし
て、その後また富楽院を武定橋の方に移した。また、富楽院のほかに、明太祖はまた十六箇所の遊廓
をたてた。富楽院は金持ち向けの遊廓であったのに対し、十六箇所の遊廓は庶民向けのものであった。
そして、明末のころになると、富楽院と十六箇所の遊廓も廃れるようになり、残ったのは南市、珠市
と旧院だけであった。秦淮の遊廓は明末のごろその最盛期を迎え、その繁盛ぶりは余懐の『板橋雑記』
にも多く記録されていた。南市や珠市は遊廓としてあまり標準が高くなかったのに対し、旧院は名妓
と花魁がたくさん集まる格式の高い遊廓であった。また、江南地区は河や運河は発達していたため、
秦淮の遊廓は殆ど秦淮河沿いに開かれていた。したがって、文人たちが妓女を伴って画舫を浮かべる
様子は秦淮の遊廓の特殊な風景となった。旧院は昔の富楽院であったから、旧院と呼ばれ、また、一
般的には「曲中」とも呼ばれ、周囲は塀で囲まれていたという。この旧院は明末清初の秦淮の遊廓の
中心となり、「秦淮八艶」と呼ばれる名妓たちも続々と現れ、当時の優れた文人たちと詩を交換し、
また、「わたしが同人と詩文の会を催すときは、いつも必ず十娘の家に出向くことにしていた。」と
『板橋雑記』に記録されたように、名妓はよく文人たちの主催した政治や文学の討論会に出て、その
名妓自身がその文学討論会の主役や主催者になることもめずらしくなかった。当時の秦淮の遊廓はま
さに文人の文芸サロンといえよう。
●意外なところに、南京の富楽院(旧院)の記録を見付けた。それがまた、非常に面白いし、参考になる。なかなかこういう視点で中国の詩文を論じたものはない。全文は、以下で見ることが出来る。
・「江戸前期と明末清初における遊廓文化について」:陳 羿秀
http://teapot.lib.ocha.ac.jp/ocha/bitstream/10083/3377/1/P158-162.pdf#search='%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%89%8D%E6%9C%9F%E6%98%8E%E6%9C%AB%E6%B8%85%E5%88%9D%E6%B8%B8%E5%BB%93%E6%96%87%E5%8C%96';
●この文を書いた陳羿秀がどんな人かも頗る気になる。以下の文を見付けた。参考までに。
・「私と米山奨学会」:お茶の水女子大学大学院・米山奨学生 陳 羿秀氏
http://www.tokyo-rc.gr.jp/jtablespeech/ts.cgi?pid=jt1307_12
●前に、竹生島を調べていた際にも、黄韻如「日本の染織意匠と中国 : 波兎文様を中心に」と言う論文に出遭った。これも『お茶の水女子大学教育・研究成果コレクション "TeaPot"』掲載のもので、非常に勉強になった。
・書庫「竹生島」:ブログ『波兎文様』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/33362819.html
●現在、江南貢院は再興されているけれども、富楽院(旧院)の方は何も無い。私には、江南貢院より富楽院(旧院)の方が気になって仕方がない。
●日本の遊郭文化が中国に起源する。こんな発想は、まるで思い付かない。しかし、陳羿秀「 江戸前期と明末清初における遊廓文化について」を読むと、そのことが間違いないことが理解される。非常に興味深い論文である。