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おしえて邪馬台国7

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○2014年4月15日版、朝日新聞30面に、久し振りに「おしえて邪馬台国」が出ていた。いつもと違って、今回は相当力が入っているような記事である。小見出しと前書きには、次のようにあった。

      吉備 卑弥呼の故郷?
      「倭国王がいた地」との説も
   邪馬台国論争の舞台なら、九州と近畿が双璧。だが、弥生世界の核となる拠点地域は、ほかにもあ
  る。そのひとつが、独特の地域性を持ち、のちの古墳時代には近畿に匹敵する巨大古墳を築く吉備地
  方(現在の岡山県)だ。近年、ここを卑弥呼の出身地、あるいは中国と交渉を持った倭国王がいた地
  と見る説が浮上している。

○冒頭記事には、次のようにある。

   2世紀後半、大きな戦乱が日本列島を覆った。「魏志倭人伝」や「後漢書倭伝」がいう、「倭国乱」
  「倭国大乱」だ。その収拾に向け、クニグニが白羽の矢を立てて「共立」したのが女王卑弥呼だった。
   卑弥呼は邪馬台国に住んだというが、生まれ故郷まで邪馬台国だったとは限らない。倭人伝に出生
  地は記録されていないからだ。どこで誕生したのか。
   「出身地は吉備だったのでは」。春成秀爾・国立歴史民俗博物館名誉教授は、そんな考えを持って
  いる。

●なかなか壮大な話で面白い。卑弥呼の出生地が吉備で、卑弥呼の墓は、この後に奈良の箸墓古墳だとある。つまり、卑弥呼は吉備で誕生し、奈良で倭国女王となったとする。当然、邪馬台国は近畿だと言うことになる。

○その根拠とするのが吉備の楯築墳丘墓だと言う。楯築墳丘墓は2世紀後半に築造された墓で、それが「後漢書倭伝」が記す帥升の墓だとする。(岡山大学松木武彦教授説)

○本記事の最後は、
   もちろん、これらも諸説あるうちのひとつ。異論も多いだろう。だが、邪馬台国がどこであれ、古
  代吉備地方が弥生時代から古墳時代への過渡期に重要な役割を演じたのは、数々の考古資料から明ら
  かだ。
   倭人伝のクニグニをまとめたであろう倭国王帥升。そのクニグニに「共立」され、新たな時代を切
  り開いた卑弥呼。彼らの実像を読み解くには、日本列島全体を視野に入れなければ正解にたどり着け
  ない、ということだろう。
と締め括っている。

●この新聞記事では、
   彼らの実像を読み解くには、日本列島全体を視野に入れなければ正解にたどり着けない、というこ
  とだろう。
と締め括る。さも納得させられる考えだと思われるかも知れない。しかし、実際はまるで違う。「魏志倭人伝」を読む限り、この時代、『日本列島全体を視野に入れなければ正解にたどり着けない』など、話にもならない。

●例えば、日本の平安時代の歴史を語るのに、北海道はまるで関係ない。平安時代に人が北海道に住んでいたとしても。「魏志倭人伝」は、倭国三十国が魏国が認識する限られた倭国世界であることを明記している。「魏志倭人伝」が問題とするのは、決して倭国全体ではない。魏国が認識する倭国世界は、倭国全体ではない。それすらも認識しないで、三世紀の倭国を論じることは危険である。「三国志」の編者陳寿は、賢明な史家であるから、当然、そんな遺漏はない。

●三世紀の倭国を論じるのに、『日本列島全体を視野に入れなければ正解にたどり着けない』と考えること自体が、現代人の思い上がりなのである。三世紀の倭国のことは三世紀の人に聞くに限る。それが「魏志倭人伝」であることは言うまでも無い。

●「魏志倭人伝」は、しっかり倭国の大きさを規定している。
  ・参問倭地絶在海中州嶌之上、或絶或連周旋可五千余里。
これが魏国が認識する倭国世界であることは、誰が考えても判ることである。編者陳寿が「魏志倭人伝」に明記していることだから、これ以上の論拠はない。

●「魏志倭人伝」が記す『里』がどういう距離数であるかを問題にする人が多いけれども、これも、実際に「魏志倭人伝」に記録された距離数で計算する方が間違いない。
  ・帯方郡~狗邪韓国:七千余里(実距離数:780辧
  ・狗邪韓国~対馬国:千余里=(実距離数:114辧
  ・対馬島:方四百余里(実距離数:166辧
  ・対馬国~壱岐国:千余里(実距離数:55辧
  ・壱岐島:方三百余里(実距離数:53辧
  ・壱岐国~末廬国:千余里(実距離数:27辧
  ・末廬国~伊都国:五百里(実距離数:32辧
  ・伊都国~ 奴国:百里(実距離数:8辧
  ・奴国~不弥国:百里(実距離数:10辧
もちろん、概数である。結果、一里は、およそ100辰らいであることが判る。

●そうすれば、魏国が認識する倭国『周旋可五千余里』は、500劼らいだと判る。ここで肝心なのは、何処から魏国が認識する倭国『周旋可五千余里』が始まるかを理解する必要がある。

●もちろん、このことも「魏志倭人伝」は、しっかり記録している。魏国が認識する倭国『周旋可五千余里』の始まりは、末廬国となっている。何故なら、末廬国以降に『渡海』の文言は無い。つまり、末廬国以降の倭国の国々は陸続きであることが判る。

●結構、「魏志倭人伝」の記録は正確で、丁寧なのである。ただ、それを読み解くことは決して容易ではない。末廬国から陸続きであって、『周旋可五千余里』の大きさであれば、魏国が認識する倭国は、誰が考えても九州島とするしかない。

●加えて、『周旋』の文言もなおざりにできない。『周旋』とは、同じところを何度もクルクル回ることを意味する。それは空中とか海中とか、草原とかでないと不可能である。三世紀の倭国であれば、それは海中しか無い。

◎こういうふうに、真面目に「魏志倭人伝」を読めば、邪馬台国が近畿だとする説は、まるで「魏志倭人伝」を読んでいない人の説とするしかない。「魏志倭人伝」は、まだまだ丁寧に倭国について述べている。そういうものを近畿で説明することは不可能である。

◎それでも、邪馬台国が近畿だと言うのであれば、それは妄想と言うしかない。あくまで、邪馬台国は「魏志倭人伝」に書かれた史実である。その「魏志倭人伝」を離れて語られる邪馬台国は虚妄の説と言うしかない。

◎これまで、『おしえて邪馬台国』について、6回書いている。朝日新聞では、『おしえて邪馬台国』と題しながら、何故か「魏志倭人伝」に全く言及しない。「魏志倭人伝」に拠ればと言いながら、まるで「魏志倭人伝」に拠っていない論ばかりが目に付く。不思議な話である。まずは、しっかり「魏志倭人伝」を読むことだろう。肝心要なことを忘れて、とんでも無い妄想や虚妄を書いていることにまるで気付いていない。それが朝日新聞の『おしえて邪馬台国』である。

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