Quantcast
Channel: 古代文化研究所
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1914

邪馬台国の風景

$
0
0



○これまで、陳壽が「魏志倭人伝」で案内する倭国や邪馬台国について述べて来た。勘違いがあるといけないので、補足しておくと、中国と倭国の交流は、会稽・寧波を通じて盛んに行われていたことを「魏志倭人伝」は教えている。

○魏国との交流は、景初2年(238年)か3年に初めて行われたかも知れないが、それ以前から呉国を通じて倭国は中国との交流を続けていた。それは、「魏志倭人伝」に、
  ・男子無大小皆黥面文身。自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。
と書かれていることから判る。中国に詣でた倭国の使いは、皆『太夫』を自称したと言う。それは中国文明を受容していない限り、考えられないことである。

○中国で倭が百越の一つとして認識されていたことも、そのことを裏付ける。私たちは、『三国志』魏書・巻三十・烏丸鮮卑東夷伝・倭人の条として、「魏志倭人伝」を読むから、どうしても、魏国との交流から倭国を認識しようとする。しかし、中国では倭はあくまで百越の一つでしかない。陳壽はそういう意識で「魏志倭人伝」を書いている。書き手の事情を考慮しない限り、「魏志倭人伝」を読むことは難しい。

○寧波や会稽(紹興)、杭州を歩いていると、各所に和冦の痕跡を見付けて驚く。和冦の歴史は古いし、それがまた連綿と続いていることに更に驚く。ある意味、寧波や会稽(紹興)、杭州あたりであれば、何処にでも普通に和冦は出現している。それは実見した者にしか判らない。寧波や会稽(紹興)、杭州あたりで、日本人ほど恐ろしい民族はいないのである。

○寧波や会稽(紹興)、杭州あたりに、日本人の文化のルーツを探して歩く者にとって、これほど悲しい話はない。しかし、それが現実である。それでも、現代の中国の人は日本人に皆親切であった。

○邪馬台国が何処に存在したか。「魏志倭人伝」を読むと、その道程は、次のように案内される。
  【帯方郡から邪馬台国までの道程】
  ・帯方郡→狗邪韓国     七千余里
  ・狗邪韓国→対馬国      千余里
  ・対馬国→壱岐国       千余里
  ・壱岐国→末廬国       千余里
  ・末廬国→伊都国       五百里
  ・伊都国→ 奴国        百里
  ・ 奴国→不弥国        百里
  ・不弥国→投馬国     千五百余里
  ・投馬国→邪馬台国     八百余里
  ・末廬国→邪馬台国     二千余里

○百越の一つとして認識される倭国までの道程は、次のようになるのではないか。
  ・会稽→寧波(100辧
  ・寧波→舟山群島(150辧
  ・舟山群島→トカラ列島宝島(600辧
  ・トカラ列島宝島→トカラ列島悪石島(50辧
  ・トカラ列島悪石島(50辧泡トカラ列島諏訪之瀬島(24辧
  ・トカラ列島諏訪之瀬島→トカラ列島中之島(28辧
  ・トカラ列島中之島→トカラ列島口之島(14辧
  ・トカラ列島口之島→口永良部島(59辧
  ・口永良部島→硫黄島(36辧
  ・硫黄島→坊津(56辧

○坊津は古来、日本三津の第一の港として認識されている。それは、もともと坊津が倭国の交易港として果たして来た役割に基づく。つまり、邪馬台国の港が坊津であったことを意味する。

○これに倭国三十国の全貌を重ねると、邪馬台国が見えてくる。
  【渡海三国】
    ・狗邪韓国・対馬国・壱岐国
  【北九州四国】
    ・末廬国・伊都国・奴国・不弥国
  【中九州二十国】
    ・斯馬国・巳百支国・伊邪国・都支国・邇奴国・好古都国・不呼国
    ・姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国・鬼国・為吾国・
    ・鬼奴国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・烏奴国・(奴国)
  【南九州三国】
    ・投馬国・邪馬台国・狗奴国

○つまり、南九州三国とは、旧日向国となる。後世、それが日向国・薩摩国・大隅国に分離するが、それがほとんど投馬国・邪馬台国・狗奴国に重なると考えられる。現在の宮崎県中南部が投馬国で、鹿児島県の薩摩半島部が邪馬台国、大隅半島部が狗奴国となる。

○「魏志倭人伝」を読むと判るのだが、北九州や中九州あたりの国々は、まだ小さな単位の国家であったのに対し、邪馬台国は七萬余戸、投馬国は五萬余戸となっていて、狗奴国もおそらく同程度の国家であったと思われる。「魏志倭人伝」が南九州三国以外で大国とするのは奴国の二萬余戸に過ぎない。

○邪馬台国を代表する風景を案内すれば、それは邪馬台国三山以外に考えられない。邪馬台国三山など、初耳かも知れないが、邪馬台国には三山が屹立していたことが判る。その山々は次の通りである。
  ・霧島山(1700叩
  ・桜島山(1117叩
  ・開聞岳(924叩

○現在でも、薩摩半島を訪れると、これらの山々を実見することができる。それらの山々は崇拝するに十分値する山々で、もちろん、現在でも信仰の対象となっている山々である。

○邪馬台国三山などと、勝手な名を付けたが、それはこれらの山々が後世、畿内に再建されているからである。それは大和三山と言う。
  ・畝傍山(うねびやま、198,5m)
  ・天香久山(あまのかぐやま、152m)
  ・耳成山(みみなしやま、139,2m)

○大和三山は、奈良県橿原市に存在する山である。「大和三山」と言う立派な名称であるが、実態は標高200辰砲盻爾燭覆ぁ△泙襪脳さな山である。こんな小さな山が「大和三山」ではないだろう。よくよく研究すると、大和三山は邪馬台国三山のレプリカであることが判る。

○だから、本来の大和三山に、一応、邪馬台国三山と命名している。本当は、これが大和三山である。邪馬台国には大和三山が存在していたのである。

○もちろん、こういう話をするからには、詳細な裏付けがなくてはならない。もともと、私が研究していたのは、この大和三山であった。それが薩摩半島に出現したのである。それで薩摩半島は何なのかを調べた。結果、邪馬台国に出会ったわけである。

○本ブログでは、簡単に大和三山についても以下のように、紹介済みである。もちろん、全てをブログで案内することはできない。
  ・書庫「大和三山」:23個のブログ
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1201946.html?m=l&p=1

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1914

Trending Articles