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隋煬帝:春江花月夜

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○何とか、揚州訪問の旅の記述も一通り済んだ。揚州文学について、これまで欧陽脩の「朝中措:平山堂」と蘇軾の「谷林堂」詩を紹介している。
  ・書庫「鑑真和上の揚州」:ブログ『欧陽脩:平山堂』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/38767236.html
  ・書庫「鑑真和上の揚州」:ブログ『蘇軾:谷林堂』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/38769829.html

○また、別に、汪の詩「詠保障河」も紹介した。
  ・書庫「鑑真和上の揚州」:ブログ『痩西湖 』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/38790502.html

○折角であるから、もう少し、揚州文学を覗いてみたい。今回案内するのは、隋煬帝の「春江花月夜」詩である。歴史上、隋煬帝の評判は頗る悪い。しかし、それはあくまで後世の歴史的一判断に過ぎない。前に、本ブログでは『京杭大運河:揚州』で紹介しているが、隋煬帝の評価は、現在見直されつつある。
  ・書庫「鑑真和上の揚州」:ブログ『京杭大運河:揚州』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/38784240.html

○その隋煬帝に、「春江花月夜」詩がある。

  【原文】
      春江花月夜:其一
        隋煬帝
    暮江平不動
    春花滿正開
    流波將月去
    潮水帶星來

  【書き下し文】
      春江花月夜:其一
        隋煬帝
    暮れに江は平らかにして動かず、
    春の花は滿ちて正に開かんとす。
    流れる波は將に月を去らんとし、
    潮の水は星を帶びて來らんとす。

  【我が儘勝手な私訳】
    夕暮れ時、揚子江村で、長江が何処までも続いて流れているのを眺める機会があった。
    揚子江村の長江の堤には春の草花が溢れ、今、それが一斉に咲こうとしている。
    上流から流れ来る長江は、月を浮かべて押し流そうとするけれども、
    下流から押し寄せる潮は、星を浮かべて押し戻そうとして鬩ぎ合っている。

○隋煬帝は、「春江花月夜」詩で、特に揚子江村と規定しているわけでは無いけれども、「春江花月夜」詩の内実に、如何にも揚子江村が相応しいので、勝手に場所設定をした。揚州の長江沿いに存在する村が揚子江村で、後世、揚子江の名が出た村である。「揚子江」とは『楊さんの江』の意である。もちろん「江」は長江の意である。「楊」字と「揚」字とは、混用されることが多い。

○春の夜、長江の何処までも続く河岸に花咲く景色がどれ程見事なものであるかを本詩は詠じている。空には明るい月と燦めく星座が揺らめいている。しかし、詩人はそれでも満足しない。

○詩人が意識しているのは、流れて止まない時間である。その時間をも止めてみせようと言う気概がこの詩にはある。多分、間違いなく、この時、詩人は時を止めたに違いない。

○詩仙李白にも匹敵するような詩情を詩人隋煬帝は見せて止まない。それが隋煬帝の詩である。隋煬帝がなかなかの文人あったことは間違いない。皇帝にしておくには、何とも惜しい人物である。

○隋煬帝は所謂三代目である。祖父楊忠、父楊堅ともに、北魏(386~534年)、北周(556~581年)に仕えた武将である。ちなみに、北魏と北周は鮮卑系の王朝である。隋煬帝も鮮卑系ではないかと言う説がある。

○また、父楊堅とともに隋煬帝は、敬虔な仏教徒でもあった。天台山の智者大師智から「總持」の法名を授かっているほどである。その隋煬帝には、四〇首ほどの詩が残されている。上記「春江花月夜」詩を読むと判るように、優れた詩人でもある。

○その隋煬帝の陵墓も揚州に存在する。今回は、隋煬帝の陵墓まで参詣することは適わなかった。

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