○邪馬台国畿内説論者は、狗奴国を熊野に比定なさることが多い。それは熊野が大和国の南に位置するからである。その邪馬台国畿内説論者の中では、最近「狗奴国」濃尾平野説まで飛び出しているらしい。何とも考古学者とはお目出度い人々である。邪馬台国が畿内に存在することを「魏志倭人伝」が否定しているのに、「狗奴国」をわざわざ濃尾平野に比定しようとする。こうなると、それは学説と言うより、妄想以外の何物でもない。共同妄想して楽しむ分は良いけれども、必ず妄想には厳しい現実が突き付けられる。そういう時、どう対応なさると言うのだろうか。
○邪馬台国北九州説論者は、狗奴国を熊襲国に比定なさったり、熊本の菊池に比定なさったりする。これもまた、まるで法外な話で、何とも「魏志倭人伝」を無視した話と言う他ない。
○日本最古の史書とされる「古事記」や「日本書紀」が、日本の始まりと規定しているのは、ともに南九州日向国である。「古事記」や「日本書紀」が、何の根拠も無く、日向国を日本の始まりだと規定しているとも思われない。仮に、「古事記」や「日本書紀」が根拠無く日向国を日本の始まりだと規定したところで、そういうものを人々が受け入れるはずもなかろう。
○「魏志倭人伝」が邪馬台国を『邪馬台国』と規定している以上、大和朝廷と邪馬台国との間に密接な関係が存在することは避けられない。邪馬台国の末裔が大和朝廷だと考える方が自然である。そう考えるなら、邪馬台国は南九州に存在したとするしかない。
○何より、「魏志倭人伝」にそう書いてあるのだから、これはどうしようもない事実である。まずは「魏志倭人伝」から出発しなくてはならない。何より丁寧にまず「魏志倭人伝」を読むことだろう。
○これまで、
・ブログ『邪馬台国の風景』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/37988457.html
・ブログ『続々・卑弥呼の肖像』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/37991150.html?type=folderlist
・ブログ『続々・卑弥呼の鬼道』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/37993712.html?type=folderlist
と、邪馬台国について言及してきたので、ここで狗奴国について触れておきたい。
○ブログ『続々・卑弥呼の肖像』の中に、
○邪馬台国の末裔が大和朝廷を打ち立てた。邪馬台国と大和国の名から考えれば、誰でもそう考え
る。しかし、歴史はそう単純ではない。史実を遡ると、大和朝廷は狗奴国によって打ち立てられたと
考える方が理に適っている。何故なら、初代天皇となる神倭伊波礼琵古命の出身は狗奴国とするしか
ないからである。
と書いた。それは、神倭伊波礼琵古命の先祖である神代三山陵が狗奴国に存在するからである。
○今どき、神代三山陵を知る人は少ないのではないか。その神代三山陵にしたところで、現在のものは、明治七年(1874年)の明治天皇の御裁可によって、
初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県薩摩川内市の新田神社
二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県霧島市溝辺町麓の高屋山陵
三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵
に比定されている。ただ、この比定地は、当時の権力者によって、無理矢理に比定されたもので、神代三山陵の第一人者である白尾國柱の意見が全く無視されたものとなっている。
○その白尾國柱の研究を継承して考えない限り、真実の神代三山陵は見えて来ない。そう考えて、神代三山陵について書いたのが2007年の次のブログである。
・書庫「神代三山陵の研究」:16個のブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/144322.html?m=l&p=1
○結果、真実の神代三山陵は、次のようにするしかない。
初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県肝属町内之浦甫与志岳(叶岳)
二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山(高屋山)
三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵
○邪馬台国を代表する風景が邪馬台国三山(大和三山)であるとすれば、狗奴国を代表する風景は神代三山陵と言えるのではないか。それほど狗奴国で神代三山陵は目立つ存在なのである。
○私たち日本人は、神社に参拝する。それは大概、鳥居をくぐって、玉砂利の参道を踏んで、神社に詣でる。おそらく、日本のほとんどの神社がそういう形式を備えている。
○そういう日本の神社の様式も、実はここから始まっている。もともと、何処にでも鳥居が存在したわけでもないし、玉砂利があったわけでもない。鳥居や玉砂利は、もともと特定の神社のものであった。それが一般に敷衍したものに過ぎない。
○鹿児島県肝属郡肝属町を流れる川が肝属川である。その上流に姶良川と言う支流が流れ、ここに『吾平山陵』が存在する。もともとは『かもつきのあひら』と呼ばれた場所である。今でも十分神意を感じることのできる場所である。
○旧暦の十月ころになると、何でもなかった河合に、突然、多くの鳥たちが参集する。これほど神秘的な出来事は無い。古代人はそういうふうに感じたのであろう。そこに鳥居を建て、河合の玉砂利の中を歩いて参拝したのが賀茂社の原型である。もちろん、そこに社など存在しないし、拝殿もない。ただ、川があり、河原があって、山があるだけの風景である。
○旧暦十月を何故、『かんなづき』と呼ぶのか。それを知りたいと思ったら、『かもつきのあひら』に出掛けてみることである。
○神代初代の彦火瓊々杵尊(天孫降臨の尊)の御陵、『可愛山陵』である甫与志岳(966叩砲蓮◆惴稱浸確諭戮留紡減澆垢襦その甫与志岳(966叩砲ら尾根づたいに約3匚圓と黒尊岳(909叩砲如△修海ら約1、7劼嚢餮峠(750叩法△気蕕北鵤院■記劼嚢餮山(高屋山)(886叩砲肪り着く。国見山(高屋山)が、神代二代の彦火火出見尊の御陵、高屋山陵とされる。
○この地方には、今でも「三岳詣で」が残されている。白尾國柱の「麑藩名勝考」も、そのことをしっかり記録している。現在は、
・甫与志岳(966叩
・黒尊岳(909叩
・国見山(高屋山)(886叩
が「三岳詣で」となっているが、もともとは、それは神代三山陵巡りであったことは間違いない。
○「狗奴国の風貌」も、到底、一回のブログで案内できるものではない。詳しくは、以下を参照されたい。
・書庫「狗奴国・救仁国の風景」:44個のブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1203721.html?m=l&p=1