○「魏志倭人伝」を読んで、邪馬台国が薩摩半島であることを確認したのは、もう20年以上も前のことである。当時の関心は専ら大和三山にあった。その大和三山が薩摩半島にそのまま存在することを知り、そこが日本発祥の地であり、邪馬台国であると理解した。
○大和三山は、奈良県橿原市に存在する山として知られる。その大和三山に初めて登ったのが1992年3月28日のことであった。大和三山とは、次の山々を指す。
・畝傍山(うねびやま、198,5m)
・天香久山(あまのかぐやま、152m)
・耳成山(みみなしやま、139,2m)
○これまで、大和三山だけで6回訪れている。奈良県橿原市に存在する大和三山の名は、奈良県橿原市では説明できない。それは大和地名が奈良県で説明できないことと一緒である。つまり、大和三山や大和地名は何処か別の場所から移動して来たものではないかと考えたわけである。
○その場所は、「古事記」や「日本書紀」の記述に照らし合わせると、日向国以外に考えられない。それで日向国に、「うねびやま・かぐやま・みみなしやま」の名に相応しい山々を探索し続けた。幸いなことに、私が住んでいるのが日向国の一隅だったから、探す時間は大幅に短縮できた。
○結果、浮かび上がって来たのが、次の山々である。
・霧島山(1700叩
・桜島山(1117叩
・開聞岳(924叩
○薩摩半島では、大和三山の名がきれいに説明できる。このことについては、以下のブログを参照されたい。
・書庫「大和三山」:ブログ『きりしまのうねびやま』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/35045578.html
・書庫「大和三山」:ブログ『かごしまのさくらじまやま』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/35064468.html
・書庫「大和三山」:ブログ『ひらききのみみなしやま』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/35070835.html
○もちろん、大和三山を案内するのは「万葉集」である。「万葉集」に記録されている大和三山は、香具山が十四回、畝傍山が六回、耳成山が三回。その記録については、以下のブログを参照されたい。
・書庫「大和三山」:ブログ『万葉集が記録する大和三山』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/35107837.html
○もともと私の専門は和歌で、「万葉集」を読んでいるうちに、大和三山が気になった。それまでに、奈良県へ出掛けて、何回か大和三山を望見していた。あんな小さな山を、何故、古代人は大和三山と呼んだのだろうかと言うことである。
○それに、大和三山の、「うねびやま・かぐやま・みみなしやま」の名も、頗る気になった。それで、実際、大和三山へ登ってみようと思った。それが1992年3月28日のことである。
○結果、どう考えても、奈良県橿原市の大和三山は大和三山に相応しい山々ではないと理解した。それで、本来の大和三山が別に存在するのではないかと考えたわけである。結果、やはり、大和三山は南九州に、しっかり今でも存在していたのである。
○「魏志倭人伝」を読み解くと、陳壽が案内する倭国三十国は、次のように案内される。
【渡海三国】
・狗邪韓国・対馬国・壱岐国
【北九州四国】
・末廬国・伊都国・奴国・不弥国
【中九州二十国】
・斯馬国・巳百支国・伊邪国・都支国・邇奴国・好古都国・不呼国
・姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国・鬼国・為吾国・
・鬼奴国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・烏奴国・(奴国)
【南九州三国】
・投馬国・邪馬台国・狗奴国
○それなら、大和三山が存在するところが邪馬台国とするしかない。もともと邪馬台国三山が大和三山であったことが理解される。陳寿は案内していないけれども、邪馬台国の風景としては、邪馬台国三山がもっとも相応しい風景であろう。
○その邪馬台国には日本三津の第一とされる坊津が存在する。このことについても、陳寿は「魏志倭人伝」で、百越の国の一つとして、倭国を見事に案内してくれている。
・会稽→寧波(100辧
・寧波→舟山群島(150辧
・舟山群島→トカラ列島宝島(600辧
・トカラ列島宝島→トカラ列島悪石島(50辧
・トカラ列島悪石島(50辧泡トカラ列島諏訪之瀬島(24辧
・トカラ列島諏訪之瀬島→トカラ列島中之島(28辧
・トカラ列島中之島→トカラ列島口之島(14辧
・トカラ列島口之島→口永良部島(59辧
・口永良部島→硫黄島(36辧
・硫黄島→坊津(56辧
○新たに、魏国から邪馬台国までの道程も、陳壽は丁寧に案内している。
【帯方郡から邪馬台国までの道程】
・帯方郡→狗邪韓国 七千余里
・狗邪韓国→対馬国 千余里
・対馬国→壱岐国 千余里
・壱岐国→末廬国 千余里
・末廬国→伊都国 五百里
・伊都国→ 奴国 百里
・ 奴国→不弥国 百里
・不弥国→投馬国 千五百余里
・投馬国→邪馬台国 八百余里
・末廬国→邪馬台国 二千余里
○「魏志倭人伝」には、そのように書かれている。しかし、それを読み解くことは、それほど容易なことではない。相当の検証と時間を要する。
○すでに、ここまで邪馬台国は理解されている。そんな時代に、邪馬台国が畿内だとか、北九州だとかとおっしゃったところで、まるで何の根拠も無い話であることがはっきりする。何しろ、「魏志倭人伝」はもとより、「万葉集」、「古事記」、「日本書紀」の全てが指示するところは、全て薩摩半島なのであるから。
○おまけに、日本の古代宗教が指示するところも、全て薩摩半島である。結果、卑弥呼は大山祇神とするしかないし、卑弥呼の鬼道は辯才天信仰だと判っている。それで、薩摩半島以外に邪馬台国が出現する可能性はまるで無い。
○五回に渡って、中国浙江省を歩いて来た。目的が卑弥呼の鬼道、辯才天信仰にあったことは言うまでもない。残念なことに、中国では辯才天信仰そのものが完全に見失われている。それは、ほとんど日本でも同じで、日本では真言宗や天台宗に取って替わられてしまっている。
○それでも、僅かに残る辯才天信仰の痕跡を各所に見出すことができた。もう少し時間をかけて、辯才天信仰を更に追い掛ける必要性を痛感している。
○一応、一つの区切りとして、
・第1回:「江南の秋」:2011年10月15日から21日
・第2回:「寧波漫歩」:2012年3月10日から17日
・第3回:「寧波再歩」:2012年7月16日から23日
・第4回:「杭州から寧波」:2012年11月5日から12日
・第5回:「寧波から杭州」:2013年3月16日から23日
の旅行を振り返り、邪馬台国に関することをまとめておきたい。これが最新の邪馬台国情報であることは言うまでもない。