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神代三山陵の先坣僑位

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○神代三山陵に先坣僑位が存在するらしいことを自覚したのは、2007年から2008年にかけての頃であった。当時の関心は、専ら吉野山にあった。「日本書紀」巻三十の持統天皇紀には、持統三年一月から十一年四月までの9年間に計31回の吉野宮御幸が紹介されている。

○これは尋常な回数ではない。何がそれ程持統天皇を吉野へ行かせるのか。気になって仕方がなかった。それで、何度か吉野山を訪れた。本ブログでは、そのことについて、書庫「吉野山の正体」として書いている。

○持統天皇と同時期に、吉野山開祖とされる役小角が存在することも気になった。ひょっとしたら、持統天皇は蔵王権現の信奉者ではないかと疑ったくらいである。しかし、持統天皇の吉野宮御幸は、そうではない。おそらく、それは祖霊信仰に基づくものであろうと結論づけた。このことについては、「吉野山の正体」の結論として、2008年3月に以下のブログに書いている。
  ・書庫「吉野山の正体」:ブログ『吉野山は何者か粥宍般邉行4』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/3820417.html

○つまり、吉野山は彦火瓊々杵尊の御陵である可愛山陵を勧請したものに他ならない。吉野山は『よしのやま』では無く、『えのやま』である。そのことを詳細に探求し続けたのが、書庫「吉野山の正体」となっている。
  ・書庫「吉野山の正体」:29個のブログ
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/389714.html?m=l&p=1

○すでにこの頃、吉野山が可愛山陵であるなら、高野山が高屋山陵であることも推測出来ていた。それで、吉野山へ参詣するついでに、高野山にも参詣した。

○しかし、問題は吾平山陵である。吉野山が可愛山陵であり、高野山が高屋山陵なら、当然、もう一つの神代三山陵である吾平山陵もこの近くに存在するはずである。当時、現在、神代三山陵の比定地となっている、
  初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県薩摩川内市の新田神社
  二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山
  三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵
や、その他の神代三山陵の比定地を、隈無く見て回った。

○結果、吾平山陵が熊野本宮であることを理解し、2009年3月に、「熊野から天川村・吉野・国中への旅」へ出掛けた。実見して、吾平山陵が間違いなく、熊野本宮であることを理解した。

●これまで、何度か「神代三山陵の先坣僑位」については、書いている。先にそれを紹介しておきたい。
  ・書庫「狗奴国・救仁国の風景」:ブログ『神代三山陵の先坣僑位』:2012年1月
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/36153537.html
  ・書庫「天孫降臨の世界山」:ブログ『神代三山陵の先坣僑位』:2013年2月
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/37562773.html
  ・書庫「世界上最美麗華貴之城:杭州」:ブログ『神代三山陵の先坣僑位』:2013年7月
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/38003388.html
  ・書庫「日本仏教伝来の普陀山」:ブログ『神代三山陵の先坣僑位』:2014年1月
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/38510185.html

●多分、今回で5回目の「神代三山陵の先坣僑位」である。それ程、神代三山陵の先坣僑位は重要な意味を持つ。何故なら、神代三山陵の先坣僑位が真実の神代三山陵がどういうものであるかを教えてくれるからである。

●「先坣僑位」の言葉も気になる。「先坣僑位」と言うのは、他国に住んだ人が、祖先の御霊を祀る為に建てた石碑や御堂を先坣僑位と言う。

●つまり、神代三山陵であるところの、可愛山陵・高屋山陵・吾平山陵の姿を、当然、神代三山陵の先坣僑位は写して創られるはずである。だから、神代三山陵の先坣僑位の姿から、もともとの神代三山陵が見えて来る。そういうふうに、神代三山陵の先坣僑位である吉野山・高野山・熊野本宮を見ると、もともとの神代三山陵は、
  初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県肝属町内之浦甫与志岳(叶岳)
  二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山
  三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵
とするしかない。

●何とも面倒な作業であるけれども、失われた古代の歴史を辿るには、甚だ便利な手法である。そのために何度も神代三山陵であるところの、可愛山陵・高屋山陵・吾平山陵を見て回った。

◎現在、神代三山陵の比定地は、次のようになっている。
  初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県薩摩川内市の新田神社
  二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山
  三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵
しかし、白尾國柱の神代三山陵の研究を引き継いで考えると、上記のようになる。江戸時代に、白尾國柱は神代三山陵を次のように比定している。
  初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県薩摩川内市の新田神社
  二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山
  三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵
何とも、白尾國柱の眼力の凄さに驚かされる。もし、白尾國柱に時代の壁が無かったら、容易に真実に迫っていただろうと思われてならない。

◎また、三世紀当時、倭国に存在したのが三山信仰であることにも、注目する必要があろう。邪馬台国三山や神代三山陵がそのことを教えてくれる。それに、辯才天信仰の故郷、硫黄島にも硫黄島三山がある。もっとも、地元で、それを自覚しているわけではないが。

◎熊野にも熊野三山が存在する。吉野山にも大峰三山が存在する。
  【熊野三山】
    ・熊野本宮大社、
    ・熊野速玉大社、
    ・熊野那智大社、
  【大峰三山】
    ・大峰山(山上ケ岳:1719叩法
    ・稲村ケ岳(1726叩法
    ・大天井ケ岳(1438叩法
しかし、大峰山で、大峰三山を言う人は居ない。既に、大峰山では完全に三山信仰を見失っている。

◎大峰三山を知るには、神代三山陵とは逆に、大峰山の故郷を知ることで理解することが出来る。大峰山の故郷は、鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島である。硫黄島に行くと、大峰山と同じ風景を目にすることが出来る。なかなか歴史は複雑である。

◎神代三山陵が教えてくれることは多い。そう言う意味でも、しっかり、神代三山陵がどういうものであるかを知ることは大事なことである。ここで、その一例を示すなら、神代三山陵の存在するところが天皇家の故郷であると言うことである。多分、持統天皇が9年間に31回も吉野を訪れた理由も、そこにある。

◎尚、本ブログでは、神代三山陵の研究は2006年頃に済ませている。それをまとめたのが以下のブログである。
  ・書庫「神代三山陵の研究」:16個のブログ
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/144322.html?m=l&p=1

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