○揚州文学として、今回は王昌齢の「客広陵」詩を案内したい。
【原文】
客広陵
王昌齢
楼頭広陵近
九月在南徐
秋色明海県
寒烟生里閭
夜帆帰楚客
昨日度江書
為問易名叟
垂綸不見魚
【書き下し文】
広陵に客す
王昌齢
楼頭、広陵に近く、
九月、南徐に在り。
秋色は海県を明らし、
寒烟は里閭に生ず。
夜帆、楚に帰るの客、
昨日、江を度るに書す。
為に問ふ、易名叟、
綸を垂れて魚を見ず。
【我が儘勝手な私訳】
高楼からは、広陵を身近に臨める、
晩秋九月に、南徐の地に滞在している。
秋の気配は、既に十分に中国の国中を充たし、
幾筋かの煙が村落から立ち上っているのを見る。
偶々、夜の舟に乗って楚に帰る旅人が居て、
昨日、長江を渡って帰ると言うので書いて渡した一句。
嚴光に出遇ったら、是非とも質問して欲しいのだ、
貴方は年中、釣り糸ばかり垂れているけれども、一向に魚が釣れませんねえ。
○何とも人を食った話である。もっとも、嚴光を話題にするくらいの詩人だから、そんなことは当たり前なのだろう。尾聯の、
為問易名叟、 為に問ふ、易名叟、
垂綸不見魚 綸を垂れて魚を見ず。
が何とも利いている。
○嚴光については、「後漢書」『卷八十三:逸民列傳第七十三』に、その伝がある。會稽余姚の人と言うから、幼少の頃から道学に親しんでいたに違いない。
嚴光字子陵,一名遵,會稽余姚人也。少有高名,與光武同遊學。及光武即位,乃變名姓,隱身不見。
帝思其賢,乃令以物色訪之。【中略】
除為諫議大夫,不屈,乃耕于富春山,後人名其釣處為嚴陵焉。建武十七年,複特徵,不至。年八
十,終於家。帝傷惜之,詔下郡縣賜錢百萬、穀千斛。
○中国の検索エンジン百度の「百度百科」が案内する王昌齢は、次の通り。
王昌龄(唐代著名诗人)
王昌龄 (698— 756),字少伯,汉族,河东晋阳(今山西太原)人,又一说京兆长安人(今西安)人。
盛唐著名边塞诗人,后人誉为“七绝圣手”。早年贫贱,困于农耕,年近而立,始中进士。初任秘书省
校书郎,又中博学宏辞,授水尉,因事贬岭南。与李白、高适、王维、王之涣、岑参等交厚。开元末
返长安,改授江宁丞。被谤谪龙标尉。安史乱起,为刺史闾丘晓所杀。其诗以七绝见长,尤以登第之前
赴西北边塞所作边塞诗最著,有“诗家夫子王江宁”之誉。王昌龄诗绪密而思清,与高适、王之涣齐名,
时谓王江宁。集六卷,今编诗四卷。
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