○「揚州詩咏」(李保華著)から、揚州を詠んだ詩を案内しているが、今回案内するのは、王安石の「平山堂」詩である。王安石(1021~1086)は、欧陽脩(1007~1072)より14歳ほど若い。王安石を登用したのも欧陽脩だとされる。
【原文】
平山堂
王安石
城北横岡走翠虬
一堂高視両三州
淮岑日対朱欄出
江岫雲斉碧瓦浮
墟落耕桑公悌
杯觴談笑客風流
不知峴首登臨処
壮観当時有此不
【書き下し文】
平山堂
王安石
城北の横岡に、翠虬の走り、
一堂の高く、両三州を視る。
淮岑は日に対し、朱欄を出づ、
江岫は雲に斉しく、碧瓦を浮かぶ。
墟落の耕桑、公は悌す、
杯觴し談笑する客は風流。
知らず、峴首に登臨する処を、
当時の壮観、此れ有るや不や。
【我が儘勝手な私訳】
広陵の城北には小高い丘が続き、その丘の間を瘠西湖が流れている、
丘上には、欧陽脩の建てた平山堂があって、江南両三州が見渡せる。
淮北の群山が西の空に屹立しているのが、平山堂の朱塗りの欄干から望め、
長江の畔は遙か南の彼方に、雲と同じ高さに、平山堂の碧瓦の先に見える。
村落の農夫たちと、平山堂の主人、欧陽脩は笑顔で付き合うし、
平山堂を訪れる風流文士たちとも、酒宴を催し、談笑する。
今、私は欧陽脩の平山堂を訪れ、堂上への登り方が判らない、
欧陽脩の平山堂に嘗て存在した、当時の文化の壮観が、
現在果たしてどれ程存在するかは、甚だ疑問だと言うしかない。
○王安石の『平山堂』詩に、欧陽脩へ対する有り余る尊敬があることは言うまでもない。ただ、詩人王安石がまず最初に讃嘆するのは、あくまで、揚州大明寺境内の平山堂である。もちろん、平山堂は欧陽脩の建てた遺構である。
○次に王安石が案内するのは、欧陽脩の人物像である。欧陽脩は誰をも愛し、また、誰にも愛された。それでいて、政治家として、文人として、多大な功績を挙げたと賞賛する。
○最後に、王安石は欧陽脩の平山堂があまりに立派過ぎて、堂上への登り方が判らないと言う。欧陽脩の到達した文化のレベルがあまりに高いからだとする。これ以上の褒め言葉はあるまい。
○ただ、王安石の『平山堂』詩が、欧陽脩に対して、何処か素っ気ない気がするのは私だけだろうか。欧陽脩と王安石の関係は、欧陽脩と蘇軾の関係のように直截的では無いところが気になる。
○揚州大明寺へ参詣すれば、欧陽脩が建て、劉敞や王安石、蘇軾が訪れた平山堂を見ることが出来る。ただ、現在、再建されている平山堂があまりに貧弱なのが寂しい。平山堂から『平山』が見えないのでは、平山堂とは呼べない。