○これまで、揚州九曲池に関して、
・書庫「痩西湖・个園」:ブログ『蘇轍:揚州五詠・九曲池』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/39267555.html
・書庫「痩西湖・个園」:ブログ『王:九曲池』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/39269575.html
と案内してきた。今回紹介するのは、陸游の『寄題揚州九曲池』詩である。もちろん、「揚州詩咏」(李保華著)も、しっかり、『寄題揚州九曲池』詩を載せている。
【原文】
寄題揚州九曲池
陸游
清汴長淮莽蒼中
揚州畫戟擁元戎
南連近甸觀秋稼
北撫中原掃夕烽
茶發蜀岡雷殷殷
水通隋苑月溶溶
懸知帳下多豪傑
一醉何因及老農
【書き下し文】
揚州九曲池に題を寄す
陸游
汴は清く淮は長く、莽蒼の中。
揚州の畫戟に、元戎を擁す。
南は近甸を連ね、秋稼を觀る、
北は中原を撫し、夕烽を掃く。
茶は蜀岡に發し、雷の殷殷たり、
水は隋苑に通じ、月の溶溶たり。
懸ねて知る帳下に、豪傑の多く、
一醉は何に因りてか、老農に及ぶを。
【我が儘勝手な私訳】
汴水は青々と清らかに流れ、淮水も青々と長く続いている。
揚州九曲池を画策するのに、淮南東路節度使、郭杲を用いた。
揚州郊外には田園が広がり、今ちょうど秋の収穫の時期であり、
揚州北方の中原を常に睨み、お陰で戦いを未然に防いでいる。
お茶は揚州蜀岡にその起源があり、その評判は雷のように鳴り響いているし、
川の流れは嘗ての隋宮址から流れ来て、川面に月はゆったりとたゆたっている。
揚州には優れた人物が多いと聞いているし、
揚州の繁栄は、兎に角、万人に及んでいるとも聞く。
○「揚州詩咏」(李保華著)には、『寄題揚州九曲池』補注に、
此詩為慶元六年(1200)陸游在山陰(今浙江紹興)時所作。九曲池及波光亭在紹興三十一年
(1161)金兵南侵時被毀。「慶元五年(1199)、淮南東路節度使郭杲命工濬池。引諸塘水以
注水。建亭于上、遂復旧現。又建于池北、築風台、月榭、東西対峙、繚以楊陰。」(「嘉靖淮揚志」)
とあって、作詩の経緯を述べている。
○2014年6月に揚州を訪れ、痩西湖を見物した。ちょうど、蓮花の季節で、見事な蓮花を痩西湖に見ることが出来た。痩西湖には波光亭が再現されていた。だから、現在の瘦西湖風景区、揚州旅游服務中心が存在するところあたりが嘗ての九曲池だろうと思われた。池には大明寺栖霊塔が映っていた。詳しくは以下を参照されたい。
・書庫「痩西湖・个園」:ブログ『揚州:瘦西湖』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/39136502.html
○陸游は、日本でも知られた詩人である。ウィキペディアフリー百科事典が案内する陸游は、次の通り。
陸游
陸 游(りく ゆう、1125年11月13日(宣和7年10月17日) - 1210年1月26日(嘉定2年12月29日))
は、南宋の政治家・詩人。字は務観。号は放翁。通常は「陸放翁」の名で呼ばれる。越州山陰(現在
の浙江省紹興市)出身。南宋の代表的詩人で、范成大・尤袤・楊万里とともに南宋四大家のひとり。
とくに范成大とは「范陸」と並称された。現存する詩は約9200首を数える。その詩風には、愛国的な
詩と閑適の日々を詠じた詩の二つの側面がある。強硬な対金主戦論者であり、それを直言するので官
界では不遇であったが、そのことが独特の詩風を生んだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E6%B8%B8
○もちろん、もっと詳しいのは中国の検索エンジン百度『百度百科』である。
陆游
陆游(1125年—1210年),字务观,号放翁,汉族,越州山阴(今绍兴)人,南宋文学家、史学家、
爱国诗人。
陆游生逢北宋灭亡之际,少年时即深受家庭爱国思想的熏陶。宋高宗时,参加礼部考试,因秦桧排斥
而仕途不畅。宋孝宗即位后,赐进士出身,历任福州宁县主簿、敕令所删定官、隆兴府通判等职,因
坚持抗金,屡遭主和派排斥。乾道七年(1171年),应四川宣抚使王炎之邀,投身军旅,任职于南郑幕
府。次年,幕府解散,陆游奉诏入蜀,与范成大相知。宋光宗继位后,升为礼部郎中兼实录院检讨官,
不久即因“嘲咏风月”罢官归居故里。嘉泰二年(1202年),宋宁宗诏陆游入京,主持编修孝宗、光宗
《两朝实录》和《三朝史》,官至宝章阁待制。书成后,陆游长期蛰居山阴,嘉定二年(1210年)与世
长辞,留绝笔《示儿》。
陆游一生笔耕不辍,诗词文俱有很高成就,其诗语言平易晓畅、章法整饬谨严,兼具李白的雄奇奔放
与杜甫的沉郁悲凉,尤以饱含爱国热情对后世影响深远。陆游亦有史才,他的《南唐书》,“简核有法”,
史评色彩鲜明,具有很高的史料价值。
http://baike.baidu.com/view/2370.htm?fr=aladdin