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懐伊地知季安

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○江戸末期、薩摩藩に、記録奉行、伊地知季安と言う人物が居る。屈原の楚辞を読んで、久し振りに伊地知小十郎季安を懐かしく、思い出した。

○ウィキペディアフリー百科事典には、伊地知季安について、次のように載せる。

      伊地知季安
   伊地知 季安(いじち すえよし、天明2年(1782年) - 慶応3年(1867年)8月)は鹿児島藩(薩摩
  藩)の記録奉行で、『薩藩旧記雑録』の編纂者。通称「安之丞」「小十郎」。実名は「貞行」「季
  彬」、文政7年(1818年)に「季安」に改名。名前については「すえなが」とルビが振ってある物が
  多いが、当人の日記では「すえよし」とあるという。
  【家系】
   実父は鹿児島藩士の伊勢貞休。後に同じ鹿児島藩士の伊地知季伴の末期養子となる。実父はかつて
  島津家久の筆頭家老であった伊勢貞昌の末裔家に婿養子となった人物で、父の実家・本田家は鹿児島
  藩の記録奉行を輩出していた家系であった。
  【略歴】
   天明2年、鹿児島城下に誕生。寛政2年(1790年)、父の実家方の従兄弟に当たる本田親孚を烏帽子
  親として元服するが、この親孚も記録奉行となった人物で、季安はこの従兄弟の影響を強く受けて成
  長した。
   享和元年(1801年)、20歳の時に伊地知季伴が死去した後の養子に入り「季彬」と改名。同2年(1
  802年)に御作事下目付、翌年に横目助となる。ところが文化5年の近思録崩れに連座し、免職の上、
  喜界島に流刑されてしまう。近思録派のリーダーであった秩父季保が伊地知家の本家筋に当たってい
  たのが理由であった。文化8年(1811年)には鹿児島に帰還したものの、文化13年(1816年)まで自
  宅謹慎を命じられた。この間、独力で藩内の史料をまとめ『旧記大苑』という目録を作成している。
   文化13年に謹慎処分は解除されたが、なお仕官することは認められず、従兄弟・本田親孚の遺作で
  ある『称名墓誌』を修訂増補するなどの作業を行っていた。これらの著作が垂水家分家で藩の要職を
  歴任していた末川周山の目に留まり、その後は藩内の多くの人の援助により書籍史料を博捜し、在野
  の史学者として名声を高め、昌平坂学問所の佐藤一斎とも交流するようになった。しかし、このこと
  が藩の記録所(いわゆる公文書館にあたる)に嫉視される所となり、天保14年(1843年)には藩命に
  よりそれまでの著作すべてを上納させられると言う処分にあってしまう。筆写しか文書複写ができな
  い時代に論考をすべて手元から取り上げられたのは、学者として致命的であった。
   が、このことによって季安の博識ぶりが当時の藩主・島津斉興の目に留まることとなり、弘化4年
  (1847年)10月に御徒目付・軍役方掛として再仕官がかなう。その後、嘉永元年(1848年)5月、
  家老・調所広郷により軍役方掛に置かれた軍賦役に任命された。季安は既に66歳となっていた。その
  後はお由羅騒動などの混乱に巻き込まれることなく順調に出世し、嘉永5年(1852年)、島津斉彬に
  よって記録奉行に任命される。慶応3年8月、御用人の役方を持って死去。享年85。墓所は鹿児島市の
  興国寺墓地にある。

○上記記録にあるように、伊地知季安は享和元年(1801年)、20歳の時に伊地知家の養子となるが、養子入りした伊地知家の関係で、連座し罪を得て、文化5年(1808)、喜界島に遠島。許されて鹿児島に帰還を許されたのは三年後の文化8年(1811)のことであった。その後も自宅謹慎の身の上で、許されたのは文化13年(1816年)であった。

○その後も仕官も道は閉ざされたままで、在野の史家として活躍。ところが藩の記録所に睨まれ、天保14年(1843年)には著作没収の憂き目に遭う。その時、伊地知季安は61歳である。

○その伊地知季安が再仕官したのは嘉永元年(1848年)、66歳のことで、普通なら隠居する年代である。その後、嘉永5年(1852年)には記録奉行まで出世している。

○鹿児島の歴史を学ぼうとすれば、伊地知季安の著作を見逃すことはできないし、伊地知季安の「漢学起源」は、日本の漢学の歴史を知る上で貴重な著作となっている。その伊地知季安の人生を辿ると、大変な生涯を生きていることに驚く。

○汨羅市屈子祠鎮に存在する屈子祠を訪れ、屈原がここで死ぬことがなかったならば、もっと大きな業績が残せたのではないかと、その死を惜しむ。しかし、そういうのは凡人の浅はかな煩悩なのであろう。屈原は、ここで死ぬべくして死んだ違いない。

○私の好きな司馬遷に、次の言葉がある。

  知死必勇     死を知れば必ず勇あり。
  非死者難也    死する者(こと)難きに非ざるなり。
  処死者難     死に処する者(こと)難し。
 【我が儘勝手な私訳】
  死んでも良いと覚悟したら、誰でも必ず勇気が湧いてくるものだ。
  しかし、死ぬこと自体は、それほど難しいことではない。
  人は誰でも一回は死ぬのだ。如何に死ぬか。それは本当に難しい。

○まさに、屈原の死は、『処死者難』を見事に具現したものに他ならない。

○鹿児島市冷水町の興国寺墓地に、薩摩藩記録奉行、伊地知季安のお墓が存在する。墓には、愚息季通の墓碑銘がある。詳しくは、以下を参照されたい。

  ・書庫「伊地知季安「漢学起源」を読む」:ブログ『伊地知季安墓碑銘』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/12935970.html
  ・書庫「伊地知季安「漢学起源」を読む」:ブログ『季安の眠る興国寺墓地』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/14814940.html
  ・書庫「伊地知季安「漢学起源」を読む」:ブログ『伊地知季安のお墓』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/29616116.html

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