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賈誼:弔屈原賦

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○屈原が汨羅江に身を投じたのは、紀元前278年5月5日だとされる。今から2291年前の出来事である。先日、2013年6月11日(旧暦5月4日)に、汨羅市屈子祠鎮に存在する屈子祠に詣でて来た。

○「史記」の著者、司馬遷も長沙を訪れたことを、『屈原賈生列傳第二十四』の最後、『太史公曰』に、
   太史公曰:餘讀離騷、天問、招魂、哀郢,悲其志。適長沙,觀屈原所自沈淵,
   未嘗不垂涕,想見其為人。
と書いている。『觀屈原所自沈淵(屈原自ら沈む所の淵を観、)』と明記しているから、司馬遷も汨羅市屈子祠鎮に存在する屈子祠を訪れていることは間違いない。

○しかし、司馬遷の前に、賈誼がこの地を訪れていることも忘れてはなるまい。それを記録しているのが司馬遷の「史記」『屈原賈生列傳第二十四』である。賈誼が左遷されたのは、紀元前178年とされるから、その頃、賈誼がこの地を訪れていることも間違いない。

○賈誼については、前に書いているので、以下を参照されたい。

  ・書庫「長沙・汨羅」:ブログ『賈誼故居』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/38024908.html
  ・書庫「長沙・汨羅」:ブログ『賈生列傳』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/38027410.html

○「文選」に、賈誼の『弔屈原賦』がある。屈子祠に詣でた賈誼が、屈原を弔って創ったものである。折角、屈子祠を訪れたのであるから、賈誼の『弔屈原賦』を紹介しておきたい。

      賈誼:弔屈原賦
  【原文】
   誼為長沙王太傅、既以謫去、意不自得。及度湘水、為賦以吊屈原。屈原、楚賢臣也。被讒放逐、作
  《離騷》賦、其終篇曰、「已矣哉!國無人兮、莫我知也。」遂自投汨羅而死。誼追傷之、因自喻、其
  辭曰:
   恭承嘉惠兮、俟罪長沙。側聞屈原兮、自沉汨羅。造讬湘流兮、敬吊先生。遭世罔極兮、乃殞厥身。
  嗚呼哀哉!逢時不祥。鸞鳳伏竄兮、鴟梟翱翔。闒茸尊顯兮、讒諛得志。賢聖逆曳兮、方正倒植。世謂
  隨、夷為溷兮、謂跖、蹻為廉。莫邪為鈍兮、鉛刀為銛。吁嗟默默、生之無故兮。斡棄周鼎、寶康瓠
  兮。騰駕罷牛、驂蹇驢兮。驥垂兩耳、服鹽車兮。章甫薦履、漸不可久兮。嗟苦先生、獨離此咎兮。
   訊曰:已矣!國其莫我知兮、獨壹鬱其誰語?鳳漂漂其高逝兮、固自引而遠去。襲九淵之神龍兮、深
  潛以自珍。偭蟂獺以隱處兮、夫豈從蝦與蛭蟥?所貴聖人之神兮、遠濁世而自藏。使騏驥可得係而羈
  兮、豈雲異夫犬羊?般紛紛其離此尤兮、亦夫子之故也。歷九州而其君兮、何必懷此都也?鳳凰翔于千
  仞兮、覽輝而下之。見細之險徵兮、遙曾擊而去之。彼尋常之污瀆兮、豈能容夫吞舟之巨魚?江
  湖之鳣鯨兮、固將制于螻蟻。
  【書き下し文】
   誼、長沙王の太傅と爲り、既に謫を以て去るに、意は自得せず。湘水を度るに及び、賦以て屈原を
  弔するを爲す。屈原は、楚の賢臣なり。讒して放逐せられ、「離騷」賦を作る。其の終篇に曰く、
  「已んぬるかな。國に人無く、我を知る莫きなり。」と。遂に自ら汨羅に投じて死す。誼、之を追傷
  し、因りて自ら喻ふ。其の辭に曰く、
   恭しんで嘉惠を承け、罪を長沙に俟つ。側らに聞く、屈原自ら汨羅に沈むと。造かに湘流に託し
  て、敬しんで先生を弔ふ。世の罔極に遭ひ、乃ち身を殞厥す。嗚呼哀しいかな。時の不祥に逢ふ。鸞
  鳳は伏竄し、鴟梟は翱翔す。闒茸は尊顯し、讒諛は志を得。賢聖は逆曳し、方正は倒植す。世に謂ふ
  隨、夷溷と爲り、謂ふ蹠、蹻は廉爲り。莫邪は鈍と爲り、鉛刀は銛爲り。默默と籲嗟す、之を生くる
  の故無きを。周鼎は斡棄せられ、瓠は寶康たり。罷牛に騰駕し、蹇驢は驂たり。驥は兩耳を垂れ、鹽
  車に服す。章甫は履に薦く。漸く久かるべからず。嗟、苦先生、獨り此の咎に離ふ。
   訊に曰く、「已んぬるかな。國に其れ我を知る莫し。獨り鬱を壹にして其れ誰にか語らん。鳳の漂
  漂として其の高きに逝くは、固より自ら引きて遠くに去る。九淵に襲む神龍は、深潛して以て自ら珍
  たり。蟂に偭する獺は以て隱處し、夫れ豈に蝦と蛭蟥とに從はんや。貴ぶ所の聖人の神は、濁世に
  遠くして自ら藏す。騏驥をして系して羈するを得べからしめば、豈に夫の犬羊と雲異せんや。
   般の紛紛として其れ此の尤に離ふ、亦夫れ子の故なり。九州を曆して其れ君、何ぞ必ずしも此の都
  を懷まん。鳳凰は千仞を翔け、の輝けるを覽て之に下る。細の險徵を見て、遙かに曾擊して之を
  去る。彼の尋常の污瀆、豈に能く夫の吞舟の巨魚を容れんや。江湖の鳣鯨を横たへば、固より將に螻
  蟻に制せられんと。
【我が儘勝手な私訳】
   私は長沙王の太傅となり、すでに罪を得て都から配地に赴くに、心中納得できないものがあった。
  湘水を渡るに当たって、賦を作って屈原を弔った。屈原は楚国の賢臣である。彼は讒言にあって追放
  され、「離騒」の賦を作った。その篇末に、「已んぬるかな、楚国には人物が居ないし、私を理解で
  きる人もいない」と嘆き、遂に汨羅江に身を投げて死んだ。私は屈原を追悼し、それによって自己の
  心境に擬らえた。それは次のような賦である。
   詔を謹んで受け、罪を長沙にて俟つ。風評に聞く、屈原は汨羅に身を投じたと。私は湘水の畔に立
  ち、先生に弔意を表する次第である。
   世の乱れに遭い、身を滅ぼされたとは。ああ哀しいことよ、不幸な時代に生まれるとは。鳳の類は
  隠れ伏し、梟どもは天翔がける。つまらぬ輩は世にときめき、媚び諂い、人をあしざまに言う奴は出
  世する。立派な人間は押しのけられ、正道を歩む者はひどい仕打ちにあう。世に名高い卞随・伯夷は
  汚れ、盗跖・荘蹻は身ぎれいだ。莫邪の剣は鈍く、鉛の剣が鋭いと。
   先生は懸命に訴えなさった、讒訴の故無きことを。大事な周鼎は捨てられ、破れ甕は宝物となる。
  疲れ牛は乗用に供せられ、びっこの驢馬は副馬となる。名馬は両耳を垂れ、塩積む車を引く。章甫の
  冠は履の下敷きとなる。これでは生きていけない。ああ、苦しみのあまり、先生はそういう境地に立
  たされた。
   「訊」に曰うことには、「ああ、全てはお仕舞いだ。楚国に私を理解してくれる人は誰も居ない。
  一人思い悩んでいることを誰に語ろうか。鳳の漂漂として高く天翔るのは、もともと自ら身を引き遠
  くへ去るためである。深淵に潜む神龍は、深く潜って我が身を大切にする。イモリに背を向けて引き
  こもるケラが、どうして蟇や蛭・蚯蚓と交わり住むであろうか。貴ぶべき聖人の徳は、穢れた世から
  遠ざかり、自己を包み隠すことにあるのだ。駿馬だって繋ぎ止められれば、何処に犬や羊と異なると
  ころがあろうか。
   世の中が乱れている中で、この憂患に遭遇したことは、それはまた屈原自身に理由があるからだ。
  中国全土を巡り歩いたなら、仕える君も居たに違いない。楚国だけが国ではない。鳳凰は遥か上空を
  翔けるも、徳備わる人を見れば、舞い下り、徳薄き人に危険な兆しを見れば、翼羽ばたき遠く高く去
  り行く。狭い幅の溝の中に、どうして舟を呑み込むほどの魚が住めようか。江湖に悠々と浮かぶ鱣鯨
  だって、地面に横たえられたなら、まさに螻蛄や蟻に勝手放題に振る舞われるに違いないのだ。」と。

○賈誼の「弔屈原賦」は、前文:71字、辞文:143字、訊文:166字の、計380字で書かれている。賈誼は紀元前200年の生まれであるから、これを書いた紀元前178年当時、賈誼は23歳の若さである。

○賈誼は「弔屈原賦」で、朗々と屈原を弔って嘆じる。しかし、彼が嘆じるのは、表面上は屈原を弔っているけれども、その内実は己の悲遇にある。弔文にしてはあまりに生々過ぎるきらいがある。

○古代人は神との交流を信じていた。言葉はそういう神との交流に使用される大事なものであった。楚辞や賈誼の「弔屈原賦」を読むと、しみじみそういうことを感じる。

○それは日本でも同じである。学問の神様と讃えられながらも、菅原道真の作品など、ほとんど現代では読まれることは少ない。菅公は、実は祭文や願文の名手なのである。道真の真骨頂は祭文や願文にあると言って過言ではない。賈誼の「弔屈原賦」を読んで、そういうことを思い出した。

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