○岳陽楼は、著名な名勝であるが、中国と日本とでは認識の仕方に相当の差違がある。江南の三大名楼とする点では一致するけれども、文学での認識の仕方にその違いがある。
○日本では、岳陽楼と言えば、圧倒的に杜甫の「登岳陽楼」が有名である。ウィキペディアフリー百科事典にしたところで、紹介しているのは杜甫の「登岳陽楼」だし、何より、高校の教科書で学んでいるから誰もが知っている。
○ところが、中国の検索エンジン百度の百度百科が載せる「岳陽楼」の項目を見ると判るのだが、「岳陽楼」の項目は、
1.江南三大名楼之一
2.刘长卿诗作
3.杨基诗作
に分かれていて、「岳陽楼」と言えば、劉長卿や楊基の詩が思い出されるし、何と言っても、范仲淹の「岳陽楼記」が案内される。それほど、中国では岳陽楼は多くの詩文に彩られているのである。それは日本の、杜甫の「登岳陽楼」しか知らない認識の仕方と随分異なる。
○ここでは、岳陽楼文学の最初に、范仲淹「岳陽楼記」の原文と書き下し文を案内したい。
岳陽樓記
慶曆四年春、滕子京謫守巴陵郡。越明年、政通人和、百廢具興。乃重修岳陽樓、其舊制、刻唐賢
今人詩賦於其上。屬予作文以記之。
予觀夫巴陵勝狀、在洞庭一湖。銜遠山、吞長江、浩浩湯湯、無際涯。朝暉夕陰、氣象萬千。此則
岳陽樓之大觀也。前人之述備矣。然則北通巫峽、南極瀟湘、遷客騷人、多會於此。覽物之情、得無異乎。
若夫霪雨霏霏、連月不開、陰風怒號、濁浪排空、日星隱耀、山岳潛形、商旅不行、檣傾楫摧、薄暮
冥冥、虎嘯猿啼。登斯樓也、則有去國懷鄉、憂讒畏譏、滿目蕭然、感極而悲者矣。
至若春和景明、波瀾不驚、上下天光、一碧萬頃、沙鷗翔集、錦鱗游泳、岸芷汀蘭、鬱鬱青青。而或
長煙一空、皓月千里、浮光耀金、靜影沉璧、漁歌互答、此樂何極。登斯樓也、則有心曠神怡、寵辱皆
忘、把酒臨風、其喜洋洋者矣。
嗟夫。予嘗求古仁人之心、或異二者之為、何哉。不以物喜、不以己悲。居廟堂之高、則憂其民、處
江湖之遠、則憂其君。是進亦憂、退亦憂。然則何時而樂耶。其必曰「先天下之憂而憂、後天下之樂而
樂歟」。噫、微斯人、吾誰與歸。
時六年九月十五日
【書き下し文】
慶歷(1044年)四年春,滕子京、謫せられて巴陵郡に守たり。越えて明年、政通して人和し、
百廢して具興せんとす。乃ち岳陽樓を重修し、其の舊制をし、唐賢今人の詩賦を其の上に刻まんと
す。予に作文を屬するに、以て之を記す。
予、夫巴陵勝狀を觀るに、洞庭一湖在り。遠山を銜み、長江を吞み、浩浩湯湯として、に際涯無
し。朝暉夕陰、氣象は萬千たり。此れ則ち岳陽樓の大觀なり。前人の述、備はる。然れば則ち北は巫
峽に通じ、南は瀟湘を極め、遷客騷人の多く此に會せり。物を覽るの情、異なる無きを得んや。
若し夫れ霪雨の霏霏として、連月開けずんば、陰風怒號し、濁浪空を排し、日星耀を隱し、山岳形
を潛し、商旅行かず、檣傾き楫摧け、薄暮冥冥として、虎嘯き猿啼かん。斯の樓に登れば、則ち國を
去りて鄉を懷ひ、讒を憂へ譏を畏れ、滿目蕭然、感極りて悲しむ者有らん。
若きに至りては春和景明にして、波瀾驚かず、上下天光、一碧萬頃、沙鷗翔集し、錦鱗游泳し、岸
芷汀蘭,郁郁青青とす。而して或は長煙一空、皓月千裡、浮光金を躍らし、靜影璧を沉め、漁歌互ひ
に答ふる、此の樂しみ何ぞ極らん。斯の樓に登れば、則ち心曠くして神怡び、寵辱偕忘れ、酒を把り
て風に臨み、其の喜び洋洋たる者有らん。
嗟、予嘗て古の仁人の心を求むるに、或は二者の為に異なるは何ぞや。物を以て喜ばず、己を以て
悲しまず。廟堂の高きに居りては則ち其の民を憂ひ、江湖の遠きに處りては則ち其の君を憂ふ。是れ
進むも亦た憂ひ、退くも亦た憂ふ。然らば則ち何れの時にして樂まんや。其れ必ず天下の憂ひに先ん
じて憂ひ、天下の樂しみに後れて樂しむと曰はんか。噫、斯の人微かりせば、吾誰と與に歸せんや。
時に、六年九月十五日なり。
○中国では、岳陽楼を訪れた誰もが范仲淹の「岳陽楼記」を思い出す。「岳陽楼記」は、全文360字の堂々たる名文である。岳陽楼に登れば、人は誰もが感傷に耽り、風景美を賛嘆する。そういう思いを説くのが范仲淹の「岳陽楼記」である。岳陽楼を訪れた誰もが、范仲淹の「岳陽楼記」を思い出し、誰もが感傷に耽り、風景美を賛嘆するようになっている。
○6月11日、夕方になって、何とか岳陽楼に到着することができた。朝7時に上海から長沙へ飛び、長沙観光と汨羅の屈子祠参詣を済ませた後のことである。岳陽楼の楼門には、『巴陵勝狀』の扁額が輝いていた。もちろん、范仲淹の「岳陽楼記」の一節であることは言うまでもない。また、楹聯には、
・洞庭天下水
・岳陽天下楼
の文字が見える。
○時間が遅いせいで、肝心の岳陽楼に登ることはできなかったが、夕日が洞庭湖に沈む光景を眺めて、存分に岳陽楼の風景を楽しむことができた。まさに、『洞庭湖は天下の水』であり、『岳陽楼は天下の楼』であることを実感した。