○前回、日向国の名義について、
・もう一つの国である投馬国が投馬国の名であることにも注意を要する。投馬国の名は、「日本書
紀」が記す景行天皇の故事にもあるように、明らかに『あづま国』の謂いであろう。それは後世日向
国の名を継承することになるが、もともと、投馬国は『あづま国(東の国)』であって、『日向(日
に向かう)国=西の国)』では無いのである。
と書いたけれども、それは熊曾国の何処に日向国が存在したかを明らかにしてくれる。
○つまり、熊曾国は後世、日向国・薩摩国・大隅国に分割される。熊曾国の中心部が日向国になったわけではない。「日本書紀」景行天皇紀を読むと、日向国は熊曾国の東部であって、辺境の地であったことが理解される。それが投馬国の名の由来ともなっている。
○神代三山陵を辿ると、大隅国に達する。つまり、天皇家の故郷が大隅国であったことが判る。しかし、大和国を領知しているのが出雲神であることを考慮すれば、熊曾国の中心は大隅国でも無かったことになる。
○結果、熊曾国の中心は、あくまで薩摩国であったことが了解される。本来、ここが日向国の中心であったことも判る。『日向=ヒムカ』の名義も、薩摩国であれば納得出来ることである。
○陳寿の「三国志」には、倭国の女王として、邪馬台国の卑弥呼を載せている。当時、卑弥呼は倭国三十国のうち、二十九国を支配していたと言う。その倭国の女王の名が卑弥呼と言うのは興味深い。
●中国浙江省舟山群島へ赴くと、観音信仰の聖地として普陀山が存在する。中国の検索エンジン百度百科は、次のように普陀山を案内している。
普陀山
普陀山,与山西五台山、四川峨眉山、安徽九华山并称为中国佛教四大名山,是观世音菩萨教化众生
的道场。普陀山是舟山群岛1390个岛屿中的一个小岛,形似苍龙卧海,面积近13平方公里,与舟山群岛
的沈家门隔海相望,素有“海天佛国”、“南海圣境”之称,是首批国家重点风景名胜区。2007年(丁
亥年)5月8日,舟山市普陀山风景名胜区,经国家旅游局正式批准,为国家5A级旅游风景区。“海上有
仙山,山在虚无缥缈间”,普陀山以其神奇、神圣、神秘,成为驰誉中外的旅游胜地。普陀山是国务院
首批公布的44个国家级重点风景名胜区之一,中国国家5A级旅游景区,全国文明山、卫生山,浙江省唯
一的ISO14000国家示范区。
http://baike.baidu.com/view/22247.htm
●普陀山は、中国中国仏教四大名山の一つで、観音信仰の聖地として知られる。これまで普陀山には五回訪問している。その普陀山の沖合に洛迦山と言う島が存在する。もともと観音様がいらっしゃるところは補陀落(普陀洛迦)である。それを中国では普陀山と洛迦山に分けている。何とも奇妙な話である。
●何度も普陀山を訪れているうちに理解したことだが、舟山群島では普陀山だけをお参りしただけでは「片参り」と称して十分では無いとされる。普陀山と洛迦山の両方にお参りしないことには普陀山へお参りしたことにはならない。
●また、普陀山から眺める洛迦山の様子が、実に素晴らしい。普陀山から眺める洛迦山の姿は、観音様の姿を見せている。だから、もともと、普陀山は観音様の遙拝所であることが判る。つまり、洛迦山とは、観音様そのものであると理解される。
●実は、日本にも、江戸時代まで補陀落渡海と言う宗教行事が行われている。日本では目的地の無い乱暴な行事として知られるが、中国の普陀山の補陀落渡海は沖合5劼曚匹陵豌犹海愿呂襪海箸魄嫐していた。極めて合理的な宗教行事であったことが理解される。
●普陀山に宿泊し、日の出を遙拝すると判ることだが、普陀山では太陽は洛迦山から昇る。つまり、普陀山の観音様遙拝は、そのまま太陽崇拝であることが判る。
○驚くべきことに、普陀山から眺める洛迦山の様子は、まるで同じものを日本でも見ることが出来る。それは、鹿児島県吐噶喇列島宝島から望む小宝島である。ここでももちろん太陽は小宝島から昇る。
○こういうことは、実際、それを体験し、確認しない限り判らないことである。中国浙江省舟山群島普陀山と鹿児島県吐噶喇列島宝島とは、約600劼曚匹粒い魘瓦鵑蚤減澆垢襦ここが遣唐使船の南島ルートとされることを理解している人は少ない。
○三世紀に、陳寿が「三国志」に記述している、
・計其道里當在会稽東冶之東。
とは、そういうことを意味する。それは現地に行けば、確認出来ることである。ちなみに、噶喇列島には、これまで三回訪問している。
○私が五回も普陀山や寧波を訪れているのは、そういう理由からである。現地を知らないで想像することは自由だけれども、それでは真実には近付くことは出来ない。誰もそういうふうに邪馬台国を求めようとはしないし、語ろうとはしない。
○結果、空疎な邪馬台国論ばかりが世に出ている。それらは全て空想の産物に過ぎない。まずはしっかり陳寿の「三国志」を読むことだろう。「三国志」は名著である。敬意を以て「三国志」を読むと、薩摩国が邪馬台国であると、実に丁寧に記述してある。
◎陳寿は「三国志」に『倭国の女王、卑弥呼』と記録している。しかし、倭国の女王は「卑弥呼」ではあるまい。倭国の女王は「日向=ヒムカ」であるとするしかない。太陽崇拝がそのまま倭国の女王の名となり、国名となったものと推測出来る。
◎陳寿が「三国志」で、倭国を、
・所有無與儋耳朱崖同
と記録していることも見逃してはなるまい。陳寿は倭国の習俗が中国海南島の「儋耳・朱崖」と同じだと言う。これは、倭国は百越の一国であることを意味する。だから、「三国志」では、殊更、
・夏后少康之子封於會稽、斷髪文身以避蛟龍之害。
・計其道里、當在會稽、東冶之東。
と越国の都、会稽を強調している。
◎学者先生は、満足に「三国志」さえ読まないで、邪馬台国を案内して止まない。普陀山も知らないで、平気で卑弥呼がシャーマンだとおっしゃる。それが現在までの邪馬台国論である。卑弥呼が存在したのであれば、日本史上、希有の人物であることは間違いない。いくら古代のことであっても、その痕跡が皆無と言うことはあり得ない。実際、卑弥呼は現代でも、日本中に祀られているし、尊崇されている。