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富士山登山

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○2008年8月25日に、富士山登山に出掛けたことがある。宮崎空港を朝8時に出発し、羽田まで飛び、新宿から高速バスに乗って富士山5合目まで行った。予定では13時20分到着であったが、高速で事故が発生し、大渋滞で、富士山5合目到着は15時5分であった。

○登山開始は15時57分であった。「富士山五合目:標高2305叩廚乃念撮影の後、登り始めた。8合目の蓬莱館に到着したのが19時20分で、少し暗くなり始めたので、蓬莱館に宿泊することにした。

○その時の様子は、以下のブログに詳しく書いている。
  ・書庫「山の博物誌」:ブログ『富士山に登るーその壱ー』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/15488707.html
  ・書庫「山の博物誌」:ブログ『富士山に登るーその弐ー』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/15495465.html

○富士山に登ってみると判ることだが、多くの方が夜に登って、ご来光を山頂で迎えようとなさる。私は8合目の蓬莱館に宿泊して、ご来光を拝んだ後、山頂まで行った。暗い中を山行するなど、山登りでは最も危険な行為で、狂気の沙汰と言うしかない。しかし、富士山では、そういう登山が当たり前なのに驚いた。

○駿河国一宮は、富士山本宮浅間大社と申し上げ、静岡県富士宮市宮町に鎮座坐す。御祭神は木花之佐久夜毘売命で、富士山は富士山本宮浅間大社のご神体である。

○甲斐国一宮も、浅間神社と申し上げる。ただ富士山本宮浅間大社が『せんげん』なのに対し、こちらは『あさま』と称する。山梨県笛吹市一宮町一宮に鎮座。御祭神は木花開耶姫命。

○江戸時代、すでに富士山には多くの人が登っている。特に江戸では富士請が盛んとなり、御師の先導のもと、集団での富士山詣でが行われていた。

○そういうものの起源を辿ると、修験道に辿り着く。修験道の歴史は古い。奈良時代、役小角が修験道の開祖とされるが、その起源はもっと古いと思われる。役小角が吉野山で活躍する前の時代が存在したことを窺わせる節があるからである。

○役小角は吉野山に修験道を持ち込んだ人物とする評価の方が相応しい気がする。吉野山の中心は大峰山であるが、その大峰山自体が本来、三山信仰であった。そのことは、実際、大峰山へ登ってみればはっきりする。大峰山には、
  ・大峰山(山上ケ岳:1719叩
  ・大天井ケ岳(1438叩
  ・稲村ケ岳(1726叩
の三岳が存在する。もっとも、現在、大峰山ではそういう三山信仰を喪失してしまっている。

○しかし、鹿児島県の硫黄島へ行くと、
  ・硫黄岳(703叩
  ・矢筈岳(349叩
  ・稲村岳(236叩
硫黄島三山が存在する。硫黄島では大天井ケ岳は矢筈岳と名を変えているから判りにくいけれども、矢筈岳の麓に大天井ケ原が広がっていることから、矢筈岳の元名を確認出来る。逆に、大峰山では大天井ケ岳や稲村ケ岳の山名を説明することは出来ない。それが硫黄島ではきれいに説明出来る。

○そういう意味で、役小角の修験道のルーツが硫黄島であることは間違いない。硫黄島から吉野山へ持ち込まれたのが修験道であり、大峰山信仰なのである。本ブログでは、これまで何度かそのことについては触れている。
  ・書庫「奥駈道を歩く(吉野から弥山まで)」:ブログ『大峰三山』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/34866387.html
  ・書庫「ツワブキの硫黄島」:ブログ『硫黄島三山』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/36014572.html

●何故、多くの日本人は富士山でのご来光にあれほど執着するのであろうか。富士山八合目で目にした夜の登山者の群れを見てそういうことを感じた。吉田口からの登山であれば、別に富士山山頂では無くとも、六合目からでも七合目からでもご来光は見ることが出来るのに。

●おそらく、それは日本人の中に眠る後天的遺伝子の為せる業ではないかと思えた。ほとんど本能に近いものである。太陽崇拝信仰は、それ程、日本人の中に染み付いているのだろう。

●何しろ、三世紀に、倭国の女王、卑弥呼が信仰した宗教なのである。その卑弥呼は、「古事記」「日本書紀」では大山祇神と記録されていると、前々回書いたばかりである。
  ・書庫「邪馬台国三山」:ブログ『卑弥呼の鬼道』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/39423124.html

●富士山に斎き祀られている木花之佐久夜毘売命が大山祇神の子であることは誰もが承知している。しかし、もともと大山祇神や木花之佐久夜毘売命が出現したのは邪馬台国であって、駿河国や甲斐国では無い。ここには勧請された神であることが判る。

○小林秀雄に「考えるヒント」というエッセイ集がある。その中に『お月見』という小品がある。昭和37年10月27日朝日新聞とある。その最後に、
   お月見の晩に、伝統的な月の感じ方が、何処からともなく、ひょいと顔を出す。取るに足らぬ事で
  はない、私たちが確実に身体でつかんでいる文化とはそういうものだ。古いものから脱却する事はむ
  ずかしいなどと口走ってみたところで何がいえた事にもならない。文化という生き物が、生き育って
  行く深い理由のうちには、計画的な飛躍や変異には、決して堪えられない何かが在るに違いない。
と小林秀雄は文化とは何かについて断じている。

○そういう文化が、多分、日本人の太陽崇拝なのであるに違いない。富士山八合目の蓬莱館に宿泊して、黙々と夜間行軍する群衆の列を見て、そんなことを感じた。二十一世紀の現代でも、富士山で私たちは卑弥呼の亡霊に出遭うことが出来る。それが文化の恐ろしさなのであろうか。

○富士山登山者のほとんどは、木花之佐久夜毘売命も大山祇神も自覚していないはずなのに。まして、それが卑弥呼の亡霊などとは思いも拠らないはずである。

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