○白尾國柱の他に、鹿児島には伊地知季安と言う優れた史家が居る。ウィキペディアフリー百科事典が案内する伊地知季安は、次の通り。
伊地知季安
伊地知 季安(いじち すえよし、天明2年4月11日(1782年5月22日) - 慶応3年8月3日(1867年8月
31日))は鹿児島藩(薩摩藩)の記録奉行で、『薩藩旧記雑録』の編纂者。通称「安之丞」「小十
郎」。実名は「貞行」「季彬」、文政7年(1818年)に「季安」に改名。名前については「すえな
が」とルビが振ってある物が多いが、当人の日記では「すえよし」とあるという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%9C%B0%E7%9F%A5%E5%AD%A3%E5%AE%89
○伊地知季安の人生こそ、まさに波瀾万丈と呼ぶに相応しい。
・天明2年(1782年)、鹿児島藩士の伊勢貞休の子として、伊地知季安生まれる。
・享和元年(1801年)、伊地知季伴の養子となる。(季安:19歳)
・文化5年(1808年)、近思録崩れに連座し、喜界島に流刑。(季安:26歳)
・文化6年(1809年)、島津斉彬生まれる。(季安:27歳)
・文化8年(1811年)、鹿児島に帰る。(季安:29歳)
・文化13年(1816年)まで自宅謹慎。(季安:34歳)
・天保14年(1843年)、著作上納処分に会う。(季安:61歳)
・弘化4年(1847年)、御徒目付・軍役方掛として再仕官。(季安:65歳)
・嘉永2年(1849年)、お由羅騒動。(季安:67歳)
・嘉永4年(1851年)、島津斉彬、42歳で藩主となる。(季安:69歳)
・嘉永5年(1852年)、記録奉行となる。(季安:70歳)
・安政5年(1858年)、島津斉彬公、逝去。享年49歳。(季安:76歳)
・元治元年(1864年)、禁門の変。第一次長州征伐。
・慶応2年(1866年)、薩長同盟なる。西郷、陸軍掛・家老座出席となる。第二次長州征伐。
・慶応3年(1867年)、8月3日、御用人の役方を持って死去。(季安:85歳)
10月14日、大政奉還。
12月9日、王政復古の大号令。
・明治元年(1868年)、明治維新。
○つまり、伊地知季安は30歳くらいから65歳まで、人生のほとんどを在野の史家として過ごしている。その生活が如何に大変であったかは想像に難くない。もともと伊勢貞休も養子で、本来、薩摩藩の記録奉行を司る本田家の家柄であった。
○伊地知季安には、別に「漢学起源」の著書がある。私が伊地知季安を知ったのは、実はこの「漢学起源」に拠ってであった。日本の漢学に於ける薩南学派の影響は大きい。そういうものを調べているうちに伊地知季安の「漢学起源」に出遭った。
・書庫「伊地知季安「漢学起源」を読む」:9個のブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1088532.html?m=l
○伊地知季安は天保14年(1843年)に、著作上納処分の憂き目に遭っている。著作物を全て取り上げられると言う、史家にとっては致命的とも言える処分である。ある意味、在野の史家として、伊地知季安の存在は無視出来ないほどのものとなっていたとも言えよう。著作上納処分とは、何とも厳しい処分である。
●伊地知季安が著作上納処分に遭った天保14年(1843年)に発刊されたのが「三国名勝図会」である。そういう意味では、「三国名勝図会」と伊地知季安との間には、何の関係も無い。
●「三国名勝図会」は橋口兼古・兼柄、五代秀堯・友古等に拠って編纂された書物である。「三国名勝図会」の『あとがきにかえて』にあるように、薩摩藩の天保の財政改革の一翼を担うものとして、まとめられたものである。
●当時の薩摩藩の状況を把握するためにまとめられたものであるから、当時の薩摩藩の内情を隈無く案内している。膨大な史料である。そう言う意味で、当時の薩摩藩の様子を知るには格好の史料である。
●前回案内した、白尾國柱の「麑藩名勝考」が或る目的を以て書かれているのに対し、「三国名勝図会」が目論むのは、存在するものを全て網羅しようとする博物誌的なものとなっているところにその特長がある。また、それまでに存在する書物の記録なども併せて掲載しているので、極めて便利である。
●ある意味、百花繚乱的で、取り止めのないようにも思えるが、それは取捨選択して読めば良い。何より、この時代、「三国名勝図会」以外に史料の無いものが多いのである。
●特に、明治時代になって、薩摩藩では廃仏毀釈が厳密に行われ、仏教文化は完全に壊滅している。そういう壊滅以前の仏教文化を詳細に記録しているのが「三国名勝図会」である。鹿児島の歴史を知るには、不可欠の史料であることは間違いない。
○冒頭に、伊地知季安の話を持って来たのには訳がある。著作上納処分に遭った伊地知季安の史料をふんだんに利用して書かれているのが「三国名勝図会」であるように思えてならない。それは伊地知季安の著作を読んでそう思うのである。没収した側がそれを利用するなど、信じられない気もするが、伊地知季安の著作は、それだけ無視できないものであったのかも知れない。
○それは没収された側にとってはたまったものではない。現代であれば、著作権問題にもなりかねない話である。御上のすることは、何時の時代であっても凄まじい。
◎鹿児島市伊敷町に、桂庵公園と言う小さな児童公園が存在する。その片隅に桂庵玄樹禪師のお墓と墓碑銘が建っている。墓碑銘は昌平學教官佐藤担によって書かれたものである。昌平學教官佐藤担とは、佐藤一斎のことである。
・書庫「鹿児島を彩る人々」:ブログ『桂庵玄樹没後五百紀年祭』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/10612562.html
・書庫「鹿児島を彩る人々」:ブログ『桂菴玄樹禪師の墓碑銘 その一』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/10987926.html
・書庫「鹿児島を彩る人々」:ブログ『桂菴玄樹禪師の墓碑銘 その二』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/10991186.html
・書庫「鹿児島を彩る人々」:ブログ『桂菴玄樹禪師の墓碑銘 その三』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/11003049.html
・書庫「鹿児島を彩る人々」:ブログ『佐藤一斎の桂庵和尚墓碑銘』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/11009131.html
◎伊地知季安が著作上納処分に遭ったのは、この墓碑銘が原因だとされる。一介の在野の史家が藩を差し置いて、天下の佐藤一斎に墓碑銘を依頼したことが藩の記録所の逆鱗に触れたらしい。
◎平成20年7月13日(日)に、「桂庵禅師没後五百年祭」が盛大に開催された。四百年祭は明治四十一年(1908年)に鹿児島県を挙げて催されたのに、五百年祭は伊敷仮屋町内会主催と言う、何とも寂しい大会であった。政教分離に拠るものと言うけれども、「桂庵禅師没後五百年祭」に宗教はほとんど無関係であろう。桂庵玄樹は禅師かも知れないが「桂庵禅師没後五百年祭」で顕彰されるのは宗教では無く文化なのである。それでも誰もが「触らぬ神に祟り無し」を優先させる。何とも世知辛い世の中となったものである。
・書庫「鹿児島を彩る人々」:ブログ『桂庵禅師没後五百年祭に参加して』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/12366683.html
◎「三国名勝図会」は鹿児島を知るには、必要不可欠の著作であることは間違いない。ただ、伊地知季安を尊敬する者にとっては、何とも気障りな書物である。
◎ウィキペディアフリー百科事典には、「三国名勝図会」について、次のように案内している。
三国名勝図会
三国名勝図会(さんごくめいしょうずえ)は、江戸時代後期に薩摩藩が編纂した薩摩国、大隅国、
及び日向国の一部を含む領内の地誌や名所を記した文書。
特に、神社や寺院についてはその由緒、建物の配置図や外観の挿絵まで詳細に記載されている。ま
た各地の名所風景を描いた挿絵も多く、当時の薩摩藩領内の様子を知るための貴重な資料となってい
る。全60巻。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%90%8D%E5%8B%9D%E5%9B%B3%E4%BC%9A