○ちょうど、書庫「邪馬台国三山」を書いている最中に、宮崎日日新聞文化欄で、「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」の特集記事が始まった。第1回は2015年2月6日(金)であった。
○本ブログでは、これまで邪馬台国や狗奴国については幾度となく書いて来ている。しかし、一回も投馬国について言及していないことが気になっていた。それで、書庫「邪馬台国三山」の次には投馬国について書こうと思っていた。そう言う意味で、宮崎日日新聞の特集記事「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」は格好の材料である。しばらく、「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」記事を検証してみたい。
○今日、2015年3月12日(木)で、「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」は10回を数える。この特集記事には何故か執筆者名が無い。読んでみると判るのだが、相当の時間を掛けて丁寧に書かれた特集記事となっている。折角こういう特集記事を掲載されるのであれば、記名記事が相応しいのではないか。勿体ない話である。それに誰が書いたかも読者は気になる。
○第1回の末尾に、本特集記事について、以下のように案内している。
九州最大の古墳、男狭穂塚・女狭穂塚を擁する西都原古墳群は、どんな歴史の記憶を残しているの
か。考古学の研究成果と「古事記」「日本書紀」に描かれた神話、歴史の伝承をもとに、謎を探る。
=次回以降は月、木曜日付=
○本ブログが追求するのは、あくまで「投馬国はどんな国家だったか」にある。それに対して、宮崎日日新聞の特集記事「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」が目論むのは、古墳時代の日向国の話である。であるから、時代が錯綜することになるけれども、投馬国の次の時代が古墳時代の日向国になるわけだから、非常に両者には関係性が高い。
○「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」の第1回冒頭は、次のような文から始まっている。
「ここでニニギノミコトとコノハナサクヤヒメが仲良く眠っておられます…」。西都市・西都原古
墳群内にある、こんもりとした「森」を背にして旅行客へ説明する竹之下裕子さん(66)は、同市
観光協会のボランティアガイド。この日は、研修旅行で訪れた別府市の観光ボランティアガイドら12
人を「記紀の道」コースに案内した。ニニギとコノハナが織りなす物語の終着点が、この「森」になる。
○なかなか魅力的な書き出しで、読者を惹き付ける。ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメなら、日本人であれば誰でも知っている。天孫降臨の神様がニニギノミコトであり、そのお嫁さんがコノハナサクヤヒメである。つまり、ここに可愛山陵が存在することを案内しているわけである。
○お話としては面白いけれども、男狭穂塚・女狭穂塚が可愛山陵である可能性はまるで無い。そのことは宮崎日日新聞も理解しているらしく、
しかし、神話だけでなく古代史や考古学の研修を重ねる中で、「森」に潜むもう一つの魅力が実像
として浮かび上がってきた。「この場所は1500年以上前にこの地を治めた人物の墓とも考えられ
ています。真の主はまだ分かっていません」。竹之下さんは新たな歴史ロマンを投げ掛けて、ガイド
を締めくくった。
と結んでいる。
○続けて、「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」では、西都原古墳群と男狭穂塚・女狭穂塚について詳しく説明する。
【西都原古墳群】
日向神話ゆかりの地として親しまれる同市は、全国有数規模の古墳密集地帯でもある。中心市街地
の北西側に広がる標高約60辰諒燭蕕並翆呂鮹羶瓦箸靴董東西2、6辧南北4、2劼痢崟湘垳
古墳群」に残る古墳は311基。前方後円墳32基を中心に、方墳2基と円墳277基がひしめく。
この西都原をはじめとして宮崎平野に集中する古墳群への注目が近年、研究者らの間で高まっている。
古墳時代に国家の原型が作られる過程で、古代にヒムカと呼ばれた南九州が中核的な役割の一翼を担
っていた歴史を示す「物証」となるからだ。(以下略)
【男狭穂塚・女狭穂塚】
古墳群としての規模もさることながら、西都原を際立たせるのは大型古墳「女狭穂塚(めさほづか)」
「男狭穂塚(おさほづか)」の存在だ。墳長176辰涼剖絞翊佑倭以瑤極端に短い「帆立貝形古
墳」と呼ばれ、この形状では全国最大。同じく176辰諒長を数える女狭穂塚は九州最大の前方後
円墳となる。(以下略)
○宮崎日日新聞の特集記事「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」が目論むのは、西都原古墳群と男狭穂塚・女狭穂塚から「古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」を追求することであることが判る。
○折角、ここでニニギノミコトとコノハナサクヤヒメを取り上げながら、そのまま放擲するのも如何なものか。実際、国指定特別史跡、西都原古墳群へ出掛けると、男狭穂塚・女狭穂塚の前には可愛山陵を案内する標識も建っている。どうせなら、神代三山陵まで踏み込んで欲しかった。
○もっとも、宮崎日日新聞の特集記事「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」が注目するのは、西都原古墳群と男狭穂塚・女狭穂塚であるから、ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの話など、どうでも良いことなのかも知れない。
○ただ、この話は第6回で「『日向可愛山陵』と伝承」として取り上げられるから、詳しくはそこで触れることとなる。
○また、日向神話の取り扱い方にも留意する必要があろう。この時代、日向国とは、おおよそ現在の宮崎県と鹿児島県全体を指す。決して宮崎県だけを指すわけではない。後世、確かに日向国の国府は現在の西都市妻になるけれども、日向神話の時代に日向国の中心が西都市妻であったわけではない。
○本ブログでは、既に神代三山陵の研究を済ませている。
・書庫「神代三山陵の研究」:16個のブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/144322.html?m=l&p=1
○三世紀、南九州の中心が何処であったか。それは邪馬台国三山の存在することろであったとするしかない。そのことについては、以下で詳しく触れている。
・書庫「邪馬台国三山」:54個のブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1264643.html?m=l&p=1
○狗奴国については、以下を参照されたい。
・書庫「狗奴国・救仁国の風景」:44個のブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1203721.html?m=l&p=1
○そういう中で、投馬国の存在は気になるところである。しばらく、宮崎日日新聞の特集記事「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」を検証してみたい。