○前回、日本でのインターネット上の径山寺案内を紹介したが、今回は、その中国版を案内したい。中国の検索エンジン百度の「百度百科」が載せる径山寺は、次の通り。
径山寺
【径山寺历史】
径山寺创建于唐天宝年间,距今有1200余年的古刹,为天目山余脉,海拔769米,在浙江余杭径山镇
径山。南宋时香火鼎盛,是江南五大禅院之首。规模极为宏大,有寺僧1700余众,寺庙建筑1000多间。
寺殿由于战乱和失修,原有建筑基本无存,现仅剩钟楼一座,内悬明永乐元年大钟一口,宋代铁佛三
尊,元至正年山历代祖师碑一块。
唐天宝四年(745),法钦禅师至径山结庵。大历三年(768),代宗下诏建径山寺。南宋时孝宗亲书“径
山兴圣万寿禅寺”额。径山寺原属“牛头派”,建炎四年(1130)兴“临济宗”,道誉日隆,被列为“江
南”五山十刹之首(五山即径山、灵隐、净慈、天童、阿育王五大丛林),日本名僧俊芿、圆尔辨圆、无
本觉心、南浦昭明等先后来寺学禅,一住数年。回国后传临济宗法,并将种制茶技术和茶宴仪式传回日
本。茶宴后发展为日本茶道。又传回纺织、制药丸、打麦面、做豆腐、制酱等法。径山禅寺法师亦有多
人赴日本传教。元明间日僧谒径山者相继不断。寺屡毁屡建,解放后仅存大殿及孝宗御碑、明代永乐大
钟、明代铁香炉。1983年以后,每年有日僧数批来寺朝拜寻宗。(《余杭县志》第十五编社会第805页)
补记:径山寺已于1997年4月修复。
2008年,在余杭区政府、区统战部、区民族宗教局以及杭州市佛教协会的大力支持下,径山寺复建工
程开始实施。2010年10月21日,径山寺复建工程奠基。
在中日佛教乃至中日文化交流史上,径山寺拥有非常重要的地位。南宋中后期,日本僧人圆尔辨圆
(谥号圣一国师)、南浦昭明(谥号元通大应国师)先后在径山寺从无准师范、虚堂智愚学习禅法,回国后
辗转各地弘扬禅教。同时,他们带回中国茶典籍及径山茶具,从而将径山茶宴暨中国禅院茶礼系统地传
入日本并逐渐演化为“日本茶道”,成为日本幕府和高层社会的仪节。因此,径山不仅作为临济宗的祖
庭道场,也做为日本茶道的起源地,在日本具有较高的知名度。如今,越来越多的日本茶道中人慕名来
到径山寺,一偿“寻根”的心愿。
【径山寺主要文物】
[宋孝宗御碑]
南宋孝宗御碑,在含晖亭遗址上。碑通高5.3米,碑身高3.55米,宽1.55米,厚0.4米,正面有孝宗御
书“径山兴圣万寿禅寺”八个正楷大字,四周绘刻龙纹;碑阴有宋楼钥书《径山兴圣万寿禅寺记》之全文。
[三尊铁佛]
铁佛,明正统十一年(1446年)铸,名曰西方三圣,左胁持,观世音菩萨;中间阿弥陀佛;右胁持,
大势至。三佛均盘坐于莲花墩之上,身披袈裟,袒胸跣足,形象逼真,姿态各异,造型美观,是明代冶
铸工业的上品。
[钟楼]
钟楼,位于径山万寿禅寺大雄殿东南阳峰西坡,通高12米,底层宽8.11米,进深8.14米。楼中心自下
而上立有金柱4根,直径均为0.36米,柱距均为2.9米,成正方形,直上楼层顶部,上设梁架筑为“钟
架”悬挂大钟。底层正中屏后置楼梯,由南面北可登楼层,楼上四面开窗。楼与大钟由10根柱子分别承
重,结构上又相互牵连,强了建筑的稳固性,营造十分科学。1990年7月18日晚,因游客烟蒂酿成大
火,钟楼被毁大钟熔化变形,跌成数块,殃及“历代祖师名衔碑”。1991年修复钟楼,放置残钟。
[永乐大钟]
永乐大钟薄牢盘顶,通高2.4米,钟口径1.8米,钟口沿厚0.18米,测算重9700公斤,钟身东南面铸有
“永乐元年(1403年) 月 日住持比丘普庄劝缘造”等铭文,撞击时,发音宏亮,响彻方圆十里。
[历代祖师名衔碑]
历代祖师名衔碑,元至正庚寅年(1350年)刻,高1.41米,宽0.66米,厚0.16米。碑面镌有61代祖师
法名、俗名、忌辰等,碑阴刻有咏五峰诗五首。
○長くなったけれども、これが中国の検索エンジン百度の「百度百科」が載せる径山寺の全てである。他の五山である、霊隠寺・天童寺・浄慈寺・阿育王寺の記述に比べて、内容も表現も、かなり貧弱であることが判る。それほど、中国でも径山寺は忘れ去られた存在であることがよく判る。
○まだ、十分に調べていないからよく判らないのだけれども、おそらく、径山寺は久しく放擲されていた時代があったのではないか。それでほとんど何も残っていないものと思われる。それも当然で、ここは相当山深いところである。それは天台山や天童寺などの比ではない。兎に角、山の中の、また山の中なのである。上記案内に、標高769辰箸△襪韻譴匹癲△修譴覆虍羆短魁複牽苅賢叩砲茲蠶磴ぁ実際に、径山寺に参詣した感じでは、1000丹幣紊旅盪海謀个辰唇櫃あった。それほど山深いところである。
○径山寺参拝は、現在でも大変であるけれども、昔はもっと大変だったことがよく判る。昔は、杭州から二日三日を掛けて余杭鎮まで行き、そこから更に二日三日掛けてようやく径山鎮に辿り着く。径山鎮から山道に入り、二日三日で何とか径山寺に到着していたのではないか。大変な道程であったことが判る。
○その道を日本人僧、俊芿、圆尔辨圆、无本觉心、南浦昭明などが辿ったことを上記案内は伝えている。しかし、決してそれだけではなくて、もっと大勢の日本人僧がここを訪れていることを私は確認している。その数はおそらく数百人に上るのではないかと推測される。
○それらの多くの僧は日本の臨済宗の僧である。日本の臨済宗はもう少し、そういうことについて人々に広く伝えることの責務を感じる。それはそのまま日本と中国との文化交流でもあるわけなのだから。