○日本と径山寺との関係は深い。ウィキペディアフリー百科事典が載せる径山寺は、次の通り。
径山寺
径山寺(きんざんじ)は、中華人民共和国浙江省杭州市余杭区径山鎮の径山にある仏教禅寺。径山
興聖萬壽禅寺。南宋の五山の一。日本の茶道に影響したとする言説がある。径山寺味噌(金山寺味噌)
の由来や醤油の起源等の諸説との関係が指摘される。日本の文化との関係は深い。
【臨済宗】
【茶道】
径山寺で行われた茶宴の儀式や道具などは、日本の茶道に影響したとする言説がある。
【径山茶】
・[類聚名物考]
江戸時代に編集された百科辞典の「類聚名物考」では、「茶會始 臺子」の項で、茶道具のひとつ
の台子について、径山寺からもたらされたものが始まりである、と言う言説を紹介している。 それ
によると、文永4年(1267年)に南浦紹明(1235年~1309年)が径山寺から台子一式を持ち帰って筑
前国(福岡県)の崇福寺に伝えた。その後、紫野(京都市北区)の大徳寺に贈られ、天龍寺開祖の夢
窓疎石(1275年~1351年)がこの台子で茶宴を行った。これが台子を使った茶会の始まりである。
・[裏千家]
裏千家では、鎌倉時代の臨済宗の僧の南浦紹明(1235年~1309年)が、径山興聖万寿寺の住持の虚
堂智愚(1185年~1269年)から法を受け、台子や風炉・釜等の皆具一式を持ち帰り、それを筑前(福
岡県)の崇福寺に伝えたのが台子(点前)の始まりである、と説明している。台子からは、大棚や小
棚などの棚物や長板なども派生している。
【径山寺味噌】
なめ味噌の一種の径山寺味噌(金山寺味噌)は径山寺を由来とする言説がある。 それによると、
建長6年(1254年)、臨済宗の僧の覚心が径山寺より持ち帰り、紀伊由良(和歌山県日高郡由良町)
に建立した興国寺やその地域に伝えられた味噌の製法が、日本の径山寺味噌(金山寺味噌)の始まり
である。
【醤油】
日本に伝えられた径山寺味噌(金山寺味噌)を、日本の醤油(たまり醤油)の起源とする言説があ
る。 それらの諸説では、径山寺味噌(金山寺味噌)の製造過程でできる液体分を独立した調味料と
して発展させたものが日本の(たまり)醤油の起源である。
○ウィキペディアフリー百科事典の径山寺の項目は、かなり不完全なものである。もう少し詳しい説明が欲しいし、内容も甚だ不十分なものとなっている。
○現代の中国語では、径山寺は[jìng shān sì]と発音している。ほぼ[チン シャン シ]に近い音である。 径山寺味噌(金山寺味噌)は、そういうところから発生した表記なのであろう。同じく、ウィキペディアフリー百科事典の金山寺味噌の項目には、次のように載せている。
金山寺味噌
金山寺味噌(きんざんじみそ)は、和歌山県、千葉県、静岡県等で生産されている味噌の一種。な
め味噌の一種。径山寺味噌(きんざんじみそ)とも書く。
和歌山県の特産品として和歌山県推薦優良土産品に指定されているほか、千葉県でも特産品、推奨
土産品として扱われている。
【概要】
大豆・米・麦・野菜等から作られ、熟成期間は短いものでは1週間、長くても3ヶ月である。調味料
としては用いられず、おかずや酒の肴としてそのまま食べる。
まず、炒った大豆を引き割り、これに麦こうじと塩を合わせ、塩押ししたウリ、ナス、ショウガな
どを刻んで混ぜて仕込み、さらにウイキョウ、サンショウ、シソなどを加え、密閉して3ヶ月ほど熟
成させる。
その由来については、宋での修行から帰国した鎌倉時代の僧、心地覚心(法燈国師)が1254年に帰
朝し、請われて紀州由良(現:和歌山県日高郡由良町)の鷲峰山興国寺の開山となったため、その近
傍の湯浅(現:和歌山県有田郡湯浅町)に伝えた「径山寺(きんざんじ)味噌」が起源とする説が有
力だが、空海(弘法大師)が唐の金山寺から持ち帰ったとする説もある。
江戸に広まったのは、紀州徳川家から徳川吉宗が8代将軍となり、幕府に献上させたからだと考え
られている。 2008年3月20日、和歌山県岩出市の根来寺旧境内から、約430年前の金山寺みそが見つ
かった。
○お茶と言い、味噌や醤油と言い、私たち日本人の生活に欠かせないものばかりである。そういうものが径山寺からもたらされていることを理解している人は少ないのでは。それほど、径山寺は私たち日本人に親しい存在なのである。
○また、杭州や蘇州、紹興(昔の会稽)、寧波あたりの風土がほとんど日本の風土と同じであることも忘れてはなるまい。その杭州は中国では、「上に天国あり、下に蘇州・杭州あり。(上有天堂、下有蘇杭。)」と讃えられる土地でもある。
○別に、Yahoo!百科事典には、径山寺について、次のように載せる。
径山寺(きんざんじ)
中国、浙江(せっこう/チョーチヤン)省杭州(こうしゅう/ハンチョウ)市余杭県の北西部にあ
る禅寺。天目山(てんもくさん/ティエンムーシャン)の東北峰にあり、中国禅宗五山の一つであ
る。8世紀中ごろ、唐の代宗(だいそう)のとき国一(こくいつ)禅師道欽(どうきん)が入山して
庵(いおり)を結んだが、代宗が道欽の徳に帰依(きえ)して禅師号を与え、769年(大暦4)勅命に
よって寺が建てられた。宋(そう)代には円悟克勤(えんごこくごん)、大慧宋杲(だいえそうこ
う)らが住し、1180年(淳煕7)には孝宗の勅命で大同別峯(だいどうべっぽう)が入山した。この
ころ興聖万寿禅寺(こうしょうまんじゅぜんじ)の寺号を受けている。その後も無準師範(むじゅん
しはん)をはじめ、歴代の高名な僧が住持となり、臨済宗の大道場として大いにその禅風を振るっ
た。なお、径山寺みそはこの径山寺から製法が伝わったものといわれる。
○なかなか、日本で正確に径山寺について、詳しく丁寧に案内するものが見当たらない。それほど、径山寺は、現代の日本でも忘れ去られた存在なのかも知れない。