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羅隱:清明日曲江懷友

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○今年4月4日が清明節であった。前々から気になっていた、中国の清明節寒食節文学をこの際取り上げてみようと目論んだ。今日は6月11日であるから、もう二ヶ月以上、清明節寒食節文学について書いていることになる。果たして、これまでどんな作品を、どれくらい扱って来たか。ここで整理してみたい。
  ‥遼辧Ю玉澄 ´黄庭堅:清明  r果遏Ю玉澄 ´を果遏Э咒者不遇
  レ謀隋Э咒者不遇  β恒福Ю玉澄 ´Ш顕録紂Ю玉澄 ´杜甫:清明
  杜甫:清明二首其一  杜甫:清明二首其二  張繼:閭門即事  
  宋之問:途中寒食題黄梅臨江驛寄崔融  宋之問:寒食江州滿塘驛
  宋之問:寒食還陸渾別業  韓翃:寒食  按ネЮ機Т┸日獻郡守  洩勹清:寒食
  寡雜宜奸Т┸下第  撹雜宜奸Ы婉宗 ´管雜宜奸Р杜猶
  -人杤ぁФ目貊奸ν賤枩誼曜ц棒瓠 ´熊孺登:寒食野望  M莵堯Т┸山館書情
  で魑鎔廖Т┸野望吟  ネ察Т┸野望  Υ啜戞Т┸郊外  張籍:寒食看花
  曹松:鐘陵寒食日郊外閑遊  王禹偁:寒食  呉惟信:蘇堤清明即事
  楊万里:寒食上冢  程:郊行即事  高啓:送陳秀才還沙上省墓
  王磐:清江引・清明日出游  張可久:清江引  梓啀誓弌Ю狭尚 ´蔚膓僉Э冽玉精
  架蕎函м厭篋察γ呉蚕娶┸天  褐筝議叩Т┸書事  喜咋供Я涓峩
  ~附函和子由寒食  ∩附函和子由踏青  A附函Т┸雨(其一)
  ち附函Т┸雨(其二)  ス埆餡州寒食詩巻  左河水:清明日  Р皇筠:清明日
  劉禹錫:竹枝詞  周宗泰:姑蘇竹枝詞·跳竃神  張籍:寒食內宴二首(其一)
  張籍:寒食內宴二首(其二)   皮日休:洛中寒食二首(其一)   
  皮日休:洛中寒食二首(其二)  皮日休:汴河懷古二首  徐凝:嘉興寒食
  依譟Я評小墓  営佺期:嶺表逢寒食  恩榿鷏А長安清明言懷  
  廓魑鎔廖Т┸江畔  憾徳輿:清明日次弋陽
  …澮川:寒食  解縉:上北劉  M漫Ю玉斉 ´ね俺漫Ц仍玉戚觚懷
  ノ長卿:清明後登城眺望

○つまり、ここまで、清明節寒食節文学として65首を扱っていることになる。相当量存在するとは思っていたが、この後、どれくらい続くか、さっぱり検討が着かない。まあ気長に、出来る分、続けてみたいと思っている。

○閑話休題、今回紹介するのは、羅隱の「清明日曲江懷友」詩である。

  【原文】
      清明日曲江懷友
         羅隱
    君與田蘇即舊游
    我於交分亦綢繆
    二年隔絕黃泉下
    盡日悲涼曲水頭
    鷗鳥似能齊物理
    杏花疑欲伴人愁
    寡妻稚子應寒食
    遙望江陵一淚流

  【書き下し文】
      清明日曲江懐友
         羅隠
    君田蘇とは、即ち旧遊、
    我は交分に于いて、亦た紬繆なり。
    二年も隔絶す、黄泉の下、
    尽日悲涼なり、曲水の頭。
    鷗鳥は、物を斉しくするの理に能く似て、
    杏花は、人に愁ひを伴はせんと欲するかと疑ふ。
    寡妻稚子は、応に寒食し、
    遥かに江陵を望み、一涙を流すべし。

  【我が儘勝手な私訳】
    君とは何とも立派な賢徳長者で、昔からよく一緒に遊んだ間柄である、
    その君と交際するうちに、二人の関係は大層緊密なものとなった。
    そういう親友である君とはもう二年も離れたままである、墓の下の君とは、
    そして、清明節日の今日、曲水の畔にある君のお墓で終日悲しみに暮れた。
    カモメ鳥は全く同じ形をしていて、それが一列となってズラッと立ち並び、
    アンズの花はちょうどこの季節、私を愁えさせるかのように咲いている。
    君の残された妻と幼子は、寒食節の今日、まさに君の居ない食事を取り、
    遙かな曲江の畔にある君の墓を思い懐かしみ、涙を流しているに違いない。

○何とも情感のある佳詩だと感心するしかない。如何にも清明節に似付かわしい詩である。

○中国の検索エンジン百度の百度百科が載せる羅隠は、次の通り。

      罗隐(晚唐道家学者)
   罗隐(833~909),字昭谏,新城(今浙江省杭州市富阳区新登镇)人,唐末五代时期诗人、文学
  家、思想家。
   大中十三年(公元859年)底至京师,应进士试,历七年不第。咸通八年(公元867年)乃自编其文为
  《谗书》,益为统治阶级所憎恶,所以罗衮赠诗说:“谗书虽胜一名休”。后来又断断续续考了几年,
  总共考了十多次,自称“十二三年就试期”,最终还是铩羽而归,史称“十上不第”。黄巢起义后,避
  乱隐居九华山,光启三年(公元887年),55岁时归乡依吴越王钱镠,历任钱塘令、司勋郎中、给事中
  等职。公元909年(五代后梁开平三年)去世,享年77岁。
   著有《谗书》及《太平两同书》等,思想属于道家,其书乃在力图提炼出一套供天下人使用的“太平
  匡济术”,是乱世中黄老思想复兴发展的产物。
  http://baike.baidu.com/subview/6533/6385307.htm

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