○2016年5月22日(日)に開催された『肝付町三岳まいり』へ参加してきた。実際私が『肝付町三岳まいり』へ出掛けたのはこれが2回目である。最初の三岳まいりは個人で行い、2回に分けて実施した。その時の様子は、以下のブログに書いている。
・書庫「神代三山陵の研究」:ブログ『神代三山陵の研究捕逸◆
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/861707.html
・書庫「神代三山陵の研究」:ブログ『神代三山陵の研究捕逸』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/4007232.html
○もともと山登りは趣味だが、『肝付町三岳まいり』にそれほど山登りとしての魅力を感じて参加したわけではない。興味があるのは、『肝付町三岳まいり』のルーツである。本来、『肝付町三岳まいり』は神事であった。それがどういう神事であり、何を意味するかが知りたかったわけである。
○基本的に日本に趣味としての登山は無い。日本の登山のほとんどは、信仰に関係している。そういう意味で、『肝付町三岳まいり』は非常に気になる行事である。
○実際、肝付町観光協会主催であるのだから、そういう『肝付町三岳まいり』の歴史とか、伝統とかを案内していただけるのではないかと期待した。しかし、『肝付町三岳まいり』で参加したが、そういう案内は何も無かった。折角の由緒ある伝統行事なのだから、そういうものをしっかり認識し、案内して欲しかった。
●もっとも、『肝付町三岳まいり』の行事は、嘗て存在していたものが久しく中断していたと言う。その時にそういう伝統を完全に見失ってしまっているような気がしてならない。『肝付町三岳まいり』が本来、内浦三岳参りであることを考慮すると、『肝付町三岳まいり』は、やはり高屋神社の神事とするのが正しいのではないか。
●その点、白尾國柱の「麑藩名勝考」が案内する内浦三嶽は参考になる。白尾國柱が寛政7年(1795年)当時の『肝付町三岳まいり』を記録したのが「麑藩名勝考」の内浦三嶽なのである。
●もう少し丁寧に記録を辿れば、まだまだ『肝付町三岳まいり』の記録は出て来るような気がしてならない。そういうものを総合して、本来の『肝付町三岳まいり』がどういうものであったかを知ることが出来るのではないか。
●肝付町観光協会主催の『肝付町三岳まいり』は、そういう歴史を有しているものである。それを復元することに拠り、『三岳まいり』が本来どういうものであったかを知ることが出来る。このままでは実に勿体ない話である。
●今回、私も肝付町観光協会主催の『肝付町三岳まいり』に参加させていただいたので、『肝付町三岳まいり』がもともとどういうものであったかを、私なりに復元してみたい。おそらく、それは次のようなことになるのではないか。
◎寛政7年(1795年)の白尾國柱著「麑藩名勝考」に拠れば、内浦三嶽は、
・毎年四月三日を以て祭事あり。
・諸人群詣するの例とす。
とある。つまり、旧暦四月三日が例祭日だと言うわけである。
◎中国には清明節と言う伝統行事が存在する。ウィキペディアフリー百科事典では、次のように説明する。
清明
清明(せいめい)は、二十四節気の第5。三月節(旧暦2月後半から3月前半)。
現在広まっている定気法では太陽黄経が15度のときで4月5日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、天
文学ではその瞬間とする。恒気法では冬至から7/24年(約106.53日)後で4月7日ごろ。
【風俗】
中国における清明節は祖先の墓を参り、草むしりをして墓を掃除する日であり、「掃墓節」とも呼
ばれた。日本におけるお盆に当たる年中行事である。また、春を迎えて郊外を散策する日であり、
「踏青節」とも呼ばれた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%98%8E
◎内浦三嶽は、本来、四月三日の祭事であったと言う。清明からは少し遅れるけれども、中国の祖先崇拝をそのまま継承したものだと考えると判り易い。
◎なお、清明節がどんなものであり、中国でどのように受容されているかを知るには清明節文学が参考になるのではないか。偶々、現在、清明節文学を訳している最中である。これまで66首を訳している。詳しくは、以下を参照されたい。
・書庫「無題」:66個のブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/112954.html?m=l
◎まだ、別に「神代三山陵の研究」の話もこれまでしてきた。結果、真実の神代三山陵は次のようになる。
初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県肝属町内之浦甫与志岳(叶岳)
二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山
三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵
◎こういうふうに見てくると、『内浦三嶽参り』は、本来、『神代三山陵参り』が原型であると言うしかない。現在、『内浦三嶽参り』と言えば、
・国見山(886叩
・黒尊岳(908叩
・甫与志岳(966叩
を回ることだが、もともとは違っていたものと言うしかない。
◎それは『内浦三嶽参り』が本来、祖先崇拝に基づくものと考えれば判り易い。つまり、
・吾平山陵→国見山(886叩泡甫与志岳(966叩
と巡るものではなかったか。