○「平家物語」を読んだことのある方なら、硫黄島をご存じのはずだろう。「平家物語」前半部のヒーローが俊寛僧都であることに疑問を抱かれた方は、相当「平家物語」を読みこなしていると言える。その俊寛僧都は硫黄島のヒーローでもある。
○鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島へ出掛けてみると、現在でも、硫黄島で最大の有名人が俊寛僧都であることを理解する。これまで、
・2009年5月30日(土)
・2009年6月11日(木)
・2010年10月30日(土)・31日(日)
・2011年3月13日(日)から18日(金)
・2011年11月25日(金)から29日(火)
・2012年8月22日(水)
と6回硫黄島を訪問している。
○硫黄島がどんな島であるかは、実際訪れてみるしかないわけである。ウィキペディアフリー百科事典が案内する硫黄島は、次の通り。
硫黄島 (鹿児島県)
硫黄島(いおうじま)は、薩南諸島北部に位置する島である。郵便番号は890-0901。人口は114人、
世帯数は61世帯(2010年2月1日現在)。薩摩硫黄島(さつまいおうじま)とも呼ばれる。大隅諸島に
は、含まれるとする説と含まれないとする説とがある。
地名(行政区画)としての「硫黄島」の呼称は鹿児島県鹿児島郡三島村の大字となっており、全島
がこれに該当する。
火山島であり火山噴火予知連絡会によって火山防災のために監視・観測体制の充実等の必要がある
火山に選定されている。
鬼界ヶ島と推定される島の一つである。
東西5.5km、南北4.0km、周囲14.5km、面積11.65km2、114人の島民が住んでいる。竹島、黒島とあ
わせ、上三島(鹿児島郡三島村)を構成する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC%E7%95%8C%E3%83%B6%E5%B3%B6
●「平家物語」を読むと判るのだが「平家物語」前半部のヒーローは間違いなく俊寛僧都である。「平家物語」前半部に於ける俊寛僧都の扱いは、その分量と言い、内容と言い、尋常では無い。何故、「平家物語」で、あのように俊寛僧都が描かれているのであろうか。
●物語文学が専門では無いけれども、文学を志す者にとって、「平家物語」に於ける俊寛僧都の扱いは、極めて気になっていた。そのままずっと放置したままだったのに、偶々、古代史を扱っているうちに、硫黄島に到達した。
●改めて言うべきことでも無いけれども、硫黄島は日向国に存在する。俊寛僧都とともに硫黄島に流された平康頼が硫黄島で詠じた和歌を「平家物語」が記録している。
薩摩潟おきの小島に我ありと親にはつげよ八重の潮風
●平康頼のこの和歌を枕崎あたりで硫黄島を実見しながら鑑賞すると、余計に作者平康頼の感慨が感じられるように思う。ここでは『薩摩潟』は間違いなく『薩摩方』であり、『おきの小島』は間違いなく硫黄島であることを、そのまま風景として眺めることが出来る。つまり、枕崎周辺からは、三島である硫黄島・竹島・黒島がきれいに見えるのである。おそらく、この和歌の真相は、この風景抜きには語れない。
●誰もがさも理解したかのような鑑賞文を綴っているが、それらはまるで実感の無い感想に過ぎない。枕崎から硫黄島を眺めない限り、平康頼の、
薩摩潟おきの小島に我ありと親にはつげよ八重の潮風
和歌は理解されない。多分、そのことは作者自身がもっともよく理解していることである。
●この和歌が紹介されているのは、「平家物語」巻二『卒塔婆流』である。もちろん、舞台が硫黄島であることは間違いない。2009年5月30日(土)に、硫黄島へ俊寛僧都・平判官康頼・丹波少将成経の三人が参集した。もちろん、本物では無く、能舞台の中の話である。詳しくは、以下のブログに書いているので、参照されたい。
・書庫「三島村・薪能「俊寛」」:ブログ『三島村・薪能「俊寛」』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/27307678.html
・書庫「三島村・薪能「俊寛」」:ブログ『続 三島村・薪能「俊寛」』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/27316793.html
◎随分昔から、「平家物語」に於ける俊寛僧都の取り扱い方が気になっていた。どうして「平家物語」であれほど俊寛僧都が特筆されるかが判らない。俊寛僧都は源氏であって、平氏でも無いのに。物語作者に相当の混乱があって、あのような「平家物語」の俊寛僧都となったに違いない。そう思っていた。
◎しかし、歴史と宗教を理解すれば、「平家物語」が描く俊寛僧都像がよく理解されるのである。俊寛僧都は硫黄島に描かれなくてはならない。そういう理由が存在することが判る。ある意味、そういう佛の道が案内されているのが「平家物語」なのである。「平家物語」は軍記物語に分類されるけれども、実はそうではない。「平家物語」は間違いなく仏教説話であり、物語だと断じるしかないのである。
◎「平家物語」巻二『卒塔婆流』で、平判官康頼が硫黄島で流した卒塔婆が辿り着いたところが安芸国厳島大明神となっている。その卒塔婆に書かれていた和歌が、
薩摩潟おきの小島に我ありと親にはつげよ八重の潮風
であることを見逃してはなるまい。
◎昔の人は教養もあって歴史にも宗教にも通暁していたから、「平家物語」の俊寛僧都の取り扱いがどういうことを示しているのかを理解していた。しかし、歴史を見失い、宗教を放棄した現代人に「平家物語」の真意を理解することは出来ない。ただ、読み物として、物語として「平家物語」を読み、楽しみ、満足している。それで、十分「平家物語」を堪能したと錯覚している。
◎しかし、「平家物語」は、おそらく、仏典を読んだことも無い者に読むことは出来ない。日本の古代史、特に仏教史に詳しく無い限り、「平家物語」を読み、楽しむことは出来ない。ある意味、現代人に「平家物語」を読む能力は失せていると言うしかない。
◎平判官康頼が硫黄島で流した卒塔婆が安芸国厳島大明神へ流れ着くには、当然理由がある。それは辯才天信仰の加護なのである。同じように、安芸国厳島大明神のご本尊は辯才天様であり、それを齋き祀るのは佐伯氏に他ならない。前回、ブログ『佐伯が舎衞城であること』で案内したように、佐伯氏の出自が硫黄島であることと同じなのである。つまり、硫黄島から安芸国厳島大明神へは、日本辯才天信仰の潮流が流れていることが言いたいだけのことである。
◎判るように、「平家物語」が軍記物語だと規定するような読書は、完全な誤りに過ぎない。「平家物語」は誰が何と言おうと、壮大な仏教説話だし、物語なのである。それを知らないのは、読者に教養と信仰心が備わっていないだけのことである。そういう人に「平家物語」は読めない。