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佐伯が舎衞城であること

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○前回、「硫黄島が舎衞国であること」と題して、「日本書紀」が記録する『吐火羅』と『舎衞』が何処であるかを問題にしてきた。江戸時代に、白尾國柱は、吐噶喇列島が『吐火羅國』だとし、臥虵島を『舎衞』だとしている。それを現代に於いて、岩波古典文学大系本「日本書紀」が、吐火羅は今のタイ国、メコン河下流の王国、ドヴァラヴァティであり、舎衞は祇園精舎で有名な舎衞城だとしているのに驚いた。

○私は歴史が専門では無いので、どうしてそういうことが言えるのかがよく判らない。ただ、どう考えても古代に於いて、日本とタイ国やインドとが、「日本書紀」に頻繁に記録されるほどの交流があったとは思えない。それはその後の日本とタイ国やインドとの交流を見ても判ることである。

○そういう意味では、白尾國柱の、吐噶喇列島が『吐火羅國』だとし、臥虵島を『舎衞』だとする説は、極めて説得力がある。少なくとも白尾國柱には、遣唐使船の南島路としての吐噶喇列島が見えている。おそらくそれは、次のように案内される。
  ・坊津→硫黄島(56辧
  ・硫黄島→口永良部島(36辧
  ・口永良部島→吐噶喇列島口之島(59辧
  ・吐噶喇列島口之島→吐噶喇列島中之島(12辧
  ・吐噶喇列島中之島→吐噶喇列島諏訪之瀬島(25辧
  ・吐噶喇列島諏訪之瀬島→吐噶喇列島悪石島(20辧
  ・吐噶喇列島悪石島→吐噶喇列島宝島(50辧
  ・吐噶喇列島宝島→中国・舟山群島(600辧
  ・中国・舟山群島→寧波(150辧
  ・寧波→会稽(100辧

○この中に臥虵島は存在しない。臥虵島は吐噶喇列島中之島の近くに存在する島で、現在は無人島となっている。白尾國柱は臥虵島の名に惹かれて『舎衞』としたのだろうが、この島にそういう文化は存在しない。

●逆に、そういう文化が存在する島が硫黄島なのである。そのことについては、これまで本ブログでは「卑弥呼の鬼道PART機廚ら「卑弥呼の鬼道PART此廚泙任筺◆嵌槎鏝討遼肝遏廚ら「甦る卑弥呼 」まで、延々と述べてきた通りである。

●ある意味、日本の宗教のほとんどの起源は硫黄島にあると言って過言ではあるまい。古代に於いて、宗教は全てである。前回、その硫黄島が舎衞であると規定した。

●仏教に於いて、舎衞の名は絶大である。信仰の町の代名詞が舎衞である。白尾國柱が吐噶喇列島を『吐火羅國』だとし、臥虵島を『舎衞』だとしたのは卓見である。何故なら、吐噶喇列島こそが遣唐使船の南島路だからである。これまで、誰もそのルートを説明しようとはしない。それが上記したルートである。

●ただ、江戸時代の白尾國柱に時代の壁が存在することも見逃してはなるまい。白尾國柱が臥虵島を『舎衞』だとするのには、相当無理がある。おそらく、白尾國柱は臥虵島を訪れてはいない。臥虵島は現代でも絶海の孤島なのである。ここに文化が伝搬した気配はまるで無い。

◎そういうふうに考えると、『舎衞』は硫黄島だと規定するしかない。硫黄島は信仰の島そのものである。何しろ、出雲神の故郷であり、大山祇神の故郷であり、木花開耶姫命の故郷であり、住吉三神や諏訪神の故地であると言うのだから。

◎それだけでも、十分過ぎるのに、日本辯才天発祥の地であり、修験道の始まりであり、日本仏教の原点だと言うのだから、ある意味、日本でもっとも神聖な場所が硫黄島だと言っても過言ではあるまい。それが硫黄島なのである。

◎そのことは、大和国を訪問すれば納得される。大和国を代表する風景は何かと問われたら、何と答えるだろうか。飛鳥だとか平城京、山の辺の道、法隆寺、東大寺など、大和国には多くの文化財や文物がいくらでも存在する。しかし、誰が何と言おうと、大和国を代表する風景は大和三山以外に考えられないのである。もともと大和三山はそういう意味で造作されているのだから。

◎その大和三山を遙拝するべき場所がある。それが三輪山である。ご存じのように、三輪山は大和国一宮大神神社のご神体である。大和三山がその三輪山から遙拝するように造作されていることに驚く。もちろん、そんなことをおっしゃる方は誰も居ない。何度も大和三山へ出掛け登った結果、感じたことである。

◎大和国で三輪山から大和三山を眺める景色と全く同じ景色が日向国に存在する。それが硫黄島から眺める邪馬台国三山、
  ・うねびやま=霧島山(1700叩
  ・あまのかぐやま=桜島山(1117叩
  ・みみなしやま=開聞岳(924叩
であることに、またまた驚く。

◎もともと日向国の風景を大和国へ持って行ったのが大和三山なのである。だから、あれはレプリカだと言うしかない。本物はあくまで日向国に存在する。大和国で最も神聖な場所が大和国一宮大神神社三輪山であるように、日向国で最も神聖な場所は硫黄島なのである。

●前回、「硫黄島が舎衞国であること」で論じてきたように、硫黄島が舎衞であることを「日本書紀」が記している。そのことはつまり、硫黄島は当時、仏教立国を唱導するところであったことが判る。ちなみに、その全記録は、次のようになる。
   聞徳天皇白雉五年)夏四月、吐火羅國男二人・女二人・舎衞女一人、被風流來于日向。
  ◆弊凸静傾鳥闇)秋七月丁亥朔己丑、覩貨邏國男二人女四人、漂泊于筑紫。言、臣等初漂泊于海
    見嶋。乃以驛召。
  (斉明天皇五年三月)丁亥、吐火羅人、共妻舎衞婦人來。
  ぁ弊凸静傾掴伺)秋七月庚子朔乙卯、高麗使人乙相賀取文等罷帰。又覩貨邏人乾豆波斯達阿、欲
    帰本土、求請送使曰、願後朝於大國。所以、留妻為表。乃與数十人、入于西海之路。
  ァ陛敬霤傾帖忙庸春正月丙午朔、大學寮諸學生・陰陽寮・外薬寮、及舎衞女・堕羅女・百濟王善
    光・新羅仕丁等、捧薬及珍異等物進。

●西暦であれば、
  々徳天皇白雉五年:654年
  ∪凸静傾鳥闇:657年
  斉明天皇五年:659年
  だ凸静傾掴伺:670年
  ヅ敬霤傾鳥庸:675年
の出来事となる。この時代の出来事として、「日本書紀」が『吐火羅』や『舎衞』を記録していることに注目したい。

◎もう一つ、日本の古代史には興味深いことがある。それは佐伯地名及び佐伯氏の問題である。佐伯地名及び佐伯氏について、明確な回答に出遭ったことが無い。それほど難しい問題である。

◎ただ、佐伯地名及び佐伯氏の分布を調べれば判ることだが、何処も全て仏教と深く関係していることが判る。そういう意味では、佐伯地名及び佐伯氏は仏教に関係すると言うしかない。

◎そういうふうに追求していくと、佐伯地名及び佐伯氏も、自然と硫黄島へ帰着する。つまり、『佐伯(さえき)』は『舎衞城(しゃえき)』であるとするしかない。硫黄島がその原点であることを理解するのである。

◎このことについても、すでに詳細な検証を済ませている。詳しくは以下をご覧いただきたい。
  ・書庫「安芸・宮島・弥山」:ブログ『佐伯氏が舎衞城氏であること』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/35291618.html

◎だから『佐伯』は『さえき』と読むのが本来であって、『さいき』では無いことが判る。何故なら、もともと佐伯は『舎衞城』であって、『サンスクリット語:Śrāvastī(シュラーヴァスティー)』なのだから。

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