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筑紫日向可愛之山陵

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○天孫降臨の尊である彦火瓊々杵尊の御陵が可愛山陵である。彦火瓊々杵尊は天孫降臨した神であるから、地上に可愛山陵以前の御陵は存在しないことになる。それが可愛山陵であることを、まず理解しておく必要がある。

○つまり、可愛山陵は御陵の始原とでも言うべき存在なのである。例えば、ウィキペディアフリー百科事典には、可愛山陵について、次のように載せる。

      可愛山陵
   可愛山陵(えのやまのみささぎ)はニニギ(天津日高彦火瓊瓊杵尊)の陵。高屋山上陵、吾平山上
  陵とともに神代三山陵の一つ。明治政府により1874年(明治7年)、新田神社(現・鹿児島県薩摩川
  内市宮内町)境内の神亀山を「可愛山陵」と治定した。ただし、その後の1896年(明治29年)にも
  「北川陵墓参考地(可愛山陵伝承地)」(可愛岳山麓にある経塚古墳「日向埃山陵」、現・宮崎県延
  岡市北川町長井)、「男狭穂塚陵墓参考地(可愛山陵参考地)」(西都原古墳群のにある男狭穂塚、
  現・宮崎県西都市)を定めている。
   可愛山陵である新田神社では、神亀山の5分の4が御陵の領域となっている。
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%AF%E6%84%9B%E5%B1%B1%E9%99%B5

○可愛山陵神代三山陵に比定されている上記の、
  ・新田神社(現・鹿児島県薩摩川内市宮内町)
  ・北川陵墓参考地(可愛山陵伝承地)(現・宮崎県延岡市北川町長井)、
  ・男狭穂塚陵墓参考地(可愛山陵参考地)(西都原古墳群のにある男狭穂塚、現・宮崎県西都市)
には、全て参詣済みである。

○しかし、可愛山陵はあくまで、神代三山陵の一つに過ぎない。神代三山陵が親・子・孫の三代の御陵だとすれば、普通であれば、神代三山陵は近在するはずだろう。しかし、上記の「新田神社・北川陵墓参考地・男狭穂塚陵墓参考地」のいずれにも、残りの二つの御陵の形跡が見当たらない。これはおかしな話である。

●それに、「古事記」や「日本書紀」が実際、どのように可愛山陵を記録しているかも、しっかり確認しておく必要があろう。それが可愛山陵を規定する上ではどうしても大事なこととなってくる。

●検証すると、「古事記」には彦火瓊々杵尊の御陵の記録は存在しない。「日本書紀」本文にのみ、
  久之天津彦彦彦火瓊々杵尊崩、因葬筑紫日向可愛之山陵。
の記録が存在する。つまり、これが唯一無二の記録であることが判る。

●また、「可愛之山陵」を『えのみささぎ』と読むことも極めて難しい。これは「日本書紀」そのものに割注があって、「此云埃」とあることから『えのみささぎ』と読むことができる。

●以前、「古事記」と「日本書紀」と「万葉集」とに、『可愛』表現がどれくらい存在するかを調べたことがある。古事記・日本書紀・万葉集で『可愛』表現が存在するのは「日本書紀」だけで、それも二カ所だけであることが判る。

●「日本書紀」に於ける『可愛』表現の一つは、伊弉諾尊と伊弉冉尊の國産み神話の箇所である。伊弉諾尊と伊弉冉尊が國産みをする時、日本書紀本文には「可美少男」「可美少女」とある。日本書紀一書(第一)に「可愛少男」(2回)「可愛少女」(2回)とあり、その後に、「可愛、此云哀」とあって、「可愛」は「哀」と読むことを注記している。また、日本書紀一書(第五)には「善少男」とある。さらに、日本書紀一書(第十)に「可愛少男」とある。ここに、日本書紀の「可愛」の表記の6例が存在している。

●「日本書紀」に於ける『可愛』表現のもう一つが天孫降臨の神、天津彦彦火瓊々杵尊の御陵を「筑紫日向可愛(此云埃)之山陵」としている箇所になる。

●「日本書紀」に於ける『可愛』表現が、國産み神話と彦火瓊々杵尊の御陵の二カ所に使用されている意義は大きい。つまり、「日本書紀」に於ける『可愛』表現は、至高の使用例として存在していることが判る。この上なく素晴らしいものの存在が『可愛』表現なのである。

●このことについては、以前詳しく言及しているので、そちらを参照されたい。
  ・書庫「吉野山の正体」:ブログ『吉野山は何者かー「可愛・吉・延」の表記法』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/3127256.html
  ・書庫「吉野山の正体」:ブログ『吉野山は何者かー「可愛・吉・延」の表記法2』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/3144174.html
  ・書庫「吉野山の正体」:ブログ『吉野山は何者かー「可愛・吉・延」の文字使用例』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/3206862.html
  ・書庫「吉野山の正体」:ブログ『吉野山は何者か亜次峅聴山陵」の表記』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/3713327.html

◎「古事記」と「日本書紀」と「万葉集」とを読んで、判ることは、彦火瓊々杵尊の御陵である可愛山陵は何者にも代え難い大事なものであることが判る。それが『可愛山陵』の御名となっている。つまり、『可愛』の表現自体がすでに特別なものなのである。それは『可愛』を「え」と読むことが特別であることを意味する。

◎もう一つ、注意すべきは、古代の万葉仮名遣いは現代とは異なることである。このことについては橋本進吉博士に「古代国語の音韻に就いて」の名著がある。簡単に説明できることでもないので、以下を参照されたい。
  ・書庫「吉野山の正体」:ブログ『吉野山は何者かー古代国語の音韻に就いて』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/2640726.html

◎橋本進吉博士の「古代国語の音韻に就いて」に拠れば、「え」には二種類が存在し、次のように分類されると言う。

  ア行 (音)愛 哀 埃 衣 依 (訓)榎 可愛 荏 得

  ヤ行 (音)延 曳 睿 叡 遙 要 縁 裔 (訓)兄 柄 枝 吉 江

◎つまり、「埃」と「可愛」はア行で同音だが、「延」と「吉」と「江」はヤ行で別音であることが判る。少なくとも「古事記」や「日本書紀」、「万葉集」などが書かれた八世紀にはそういうふうであったと橋本進吉博士はおっしゃる。

◎だから、八世紀に於いて、「埃」や「可愛」と、「延」や「吉」、「江」と混用することは無く、明確に区別できていたことが判る。

◎ただ、問題は、「可愛」表現が何を意味し、どういうところであったかと言うことである。そのことは「可愛」表現が特別に造作された表現であることから、尚更意味不明なものとなってしまっている。意味上は「この上なく素晴らしい」ほどの意味なのだろうが。

◎そういう橋本進吉博士の「古代国語の音韻に就いて」に従えば、「延・吉・江」はヤ行であるから、ア行の「可愛」表現とは別物だと言うことになる。

◎ただ、橋本進吉博士の「古代国語の音韻に就いて」が既に中世には該当しない理論となっていることにも十分注意すべきであろう。そのことは、橋本進吉博士の説は三世紀には成立し得ない可能性もある。と言うか、「可愛」表現そのものが八世紀に至高表現を尊重するあまり、誤用された可能性も高い。

◎吉野山が可愛山陵であれば、そういう仮名遣いの問題が出てくる。しかし、住吉神社と吉野山の関係などから考えても、吉野山は可愛山陵だとするしかない。結構、面倒な検証が要求される。

◎もともと「住吉」は『すえよしのすみのえ』だったと言うしかない。それがいつの間にか『すみよしのすみのえ』へと変化したのではないか。『すみよしのすみのえ』ではあまりに藝が無い。南九州にはそれを思わせる痕跡が残されている。

◎筑紫日向可愛之山陵が神代三山陵の一つである以上、それは鹿児島県肝属町内之浦甫与志岳(叶岳)だとするしかない。ただ、ここには筑紫日向可愛之山陵の内実が見受けられないように感じられてならない。そうすると、本来、「可愛山=吉野山」は、何か別の存在を意味するものであったのではないか。

◎「日本書紀」が『可愛』表現を、伊弉諾尊と伊弉冉尊の國産み神話と、天孫降臨の神、天津彦彦火瓊々杵尊の御陵に使用していることは、実に興味深い。そういう特別の表現が『可愛』表現なのである。ただ、「日本書紀」の編纂が歴史に反した極めて意図的なものであることを考えた時、やはり、天孫降臨の神、天津彦彦火瓊々杵尊の御陵に於ける『可愛』表現には、無理を感じる。

◎古代日本が母系社会であったことを勘案すれば、『可愛』表現は、やはり、母系に使用されるべき表現だとするしかない。そう考えると、『可愛』表現が相応しいのは、大山祇神であり大物主神だとするしかない。そうすれば、「可愛山=吉野山」が見事にピッタリ一致する。

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