○文学で吉野山を扱うのあれば、まず「万葉集」から始めなくてはなるまい。それは「古今和歌集」から「新古今和歌集」へと連綿と続いて行く。そして、その先に芭蕉の姿を認めることが出来る。本居宣長を経て、最後は前登志夫となるのではないか。
○西行(1118~1190)と松尾芭蕉(1644~1694)との間には、およそ500年の時間差が存在するけれども、二人の間に存在する吉野山の概念の違いには凄まじいものがある。そういうことを感じて書いたのが『書庫「吉野紀行」』であった。
・書庫「吉野紀行」:28個のブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1177086.html?m=l&p=1
○日本の吉野山の伝統文化をしっかりと保持しているのが西行であって、そういう意味では、西行は古代最後の巨人と呼ぶに相応しい。芭蕉を読むと、そういうものを完全に喪失してしまっていることに驚く。あれほど伝統文化を強く意識し、日本伝統文化を保持しようとする芭蕉がそういう吉野山の伝統文化をまるで理解していないことに恐ろしさを感じる。文化を保持することはそれほど困難なことなのである。
○西行は俗名を佐藤義清と言い、紀伊国田仲荘の預所であったから、吉野山(金峯山寺)までは直線距離で47劼醗娚阿閥瓩ぁそれに対して、芭蕉の生家は伊賀上野であるから、吉野山(金峯山寺)までは同じく直線距離で51劼任△襦
○ちなみに、役の行者、役小角(634~701)の生家とされる吉祥草寺から吉野山(金峯山寺)までは直線距離で14劼任△襦時代はそれぞれ異なるけれども、役小角と西行と芭蕉の吉野山認識は頗る違うところが面白い。
●現在、吉野山を訪れると、金峰神社の裏手に西行庵を見ることができる。西行庵手前には苔清水(とくとくの清水)も存在する。現在の金峰神社付近は山奥の感じがして、人里離れた雰囲気を醸し出しているけれども、西行の時代、ここには多くの寺社仏閣が建ち並んでいたことが判っている。
●西行は吉野山で修行を繰り返している。そのことは、「古今著聞集」巻第二・釈教・第五十七話に、『西行法師大峰に入り難行苦行の事』と題する話を載せていることから確認される。詳しくは以下を参照されたい。
・書庫「吉野紀行」:ブログ『西行法師大峰に入り難行苦行の事』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/26875621.html
●また、西行には、平等院僧正行尊と言う先達が居た。西行を理解するのに、平等院僧正行尊は欠かせない。その平等院僧正行尊ほど吉野山を熟知している人は居ない。ある意味、平等院僧正行尊は役の行者同様、吉野山聖人なのである。
●平等院僧正行尊がどんな人物であるか。ご存じない方もいらっしゃると思う。以下を参照されたい。
・書庫「吉野紀行」:ブログ『もろともにあはれと思へ』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/26911366.html
・書庫「吉野紀行」:ブログ『花よりほかにしる人もなし』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/27001043.html
したがって、西行は吉野山がどういうものであるかを、ある程度理解していたことが判る。
○それに対して、芭蕉の吉野山理解は甚だ薄いと言うしかない。芭蕉は貞享元年(1684年)41歳の時に「野ざらし紀行」の旅に出ている。また、貞享4年(1687年)44歳の時に「笈の小文」の旅を行っている。都合、2回の吉野山参詣を果たしている。
○だから、芭蕉の吉野山理解を知るには、「野ざらし紀行」と「笈の小文」を読むしかない。このことについては、上記の『書庫「吉野紀行」:28個のブログ』で詳細に検証を加えているので、そちらを参照されたい。
○結果、芭蕉はまるで吉野山が何であるかを理解していないことが判る。それは西行とは随分異なる。またそれは西行が法師であり、芭蕉が俳諧師であったこととも深く関係している。
○芭蕉の俳諧を読むと判るのだが、彼が目指すのは明らかに道士であって、仏教では無い。日本で芭蕉ほど深く道家思想に染まった文学者は少ない。それほど中国文学に憧れ、中国文学の思想に陶酔したのが芭蕉なのである。
○だから、芭蕉は金峰神社や金峯山寺界隈を彷徨いて、それで吉野山参詣を果たしたと、満足して帰っている。金峯山寺や金峰神社は、吉野山のほんの入り口に過ぎない。芭蕉には本当の吉野山がどういうものかが、まるで理解されていないのである。
◎西行と芭蕉の吉野山理解を知ると面白い。実際、現代に於いては、もっと真の吉野山を知る人は少ないのではないか。吉野山へ桜狩りへ出掛けて、下千本、中千本、上千本、奥千本と見物して、満足して帰る人は、まるで吉野山を知らない人である。
◎役の行者、役小角(634~701)が吉野山を闊歩していた時代に、持統天皇(645~703)もせっせと吉野御幸を31回も繰り返している。持統天皇は何をしに吉野へ出掛けたのか。気になって仕方がない。それはおそらくこういうことである。
・書庫「肝属町の三岳参り」:ブログ『持統天皇の吉野御幸』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/40486390.html
◎文化とは、耕すことであると言う。役小角(634~701)や持統天皇(645~703)、西行(1118~1190)、松尾芭蕉(1644~1694)を耕すと、吉野山が見えて来る。そして、それぞれの吉野山がどういうものであったかが判る。それが文化を享受すると言うことだろう。
◎そういう意味で、吉野山は勉強になる。是非、吉野山へお出掛けを。吉野山ほど日本の伝統的文化を保持しているところは少ないのではいか。古今東西、まさに、
淑き人の よしとよく見て よしと言ひし 吉野よく見よ 良き人よく見
淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見<与> 良人四来三
ところが吉野山なのである。