○三山と言えば、多くの方が思い出されるのは大和三山であり、熊野三山であり、出羽三山なのではないか。ただ、三山信仰の始原を辿ると、それは日向国へ達する。意外に出羽三山は新しいし、熊野三山も同じである。
○そういう意味では、大和三山を大和国へ持ち込んだのは神武天皇だと思われるから、相当古い。しかし、それを日本書紀で神武天皇が即位したとされる紀元前660年だとすることは出来ない。何故なら、三世紀に邪馬台国が日向国に存在したことを中国の「三国志」が明記しているからである。
○また、大和三山や出羽三山は間違いなく山であるけれども、熊野三山はまるで山ではない。ウィキペディアフリー百科事典が案内する熊野三山は、次の通り。
熊野三山
熊野三山(くまのさんざん)は、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の3つの神社の総
称。熊野三山の名前からもわかる通り、仏教的要素が強い。日本全国に約3千社ある熊野神社の総本
社である。熊野権現も参照のこと。
2004年7月に、ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産として登録された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E9%87%8E%E4%B8%89%E5%B1%B1
○ただ、この説明も決して正確ではない。もともと山号はお寺のものである。それが神社であることはあり得ない話である。原初、熊野三山がお寺であったことはその名からも明らかだと言うしかない。山でも無いのに山号があることはあり得ないからである。
○そういう点は出羽三山も同じだと言えよう。
出羽三山
出羽三山(でわさんざん)は、山形県村山地方・庄内地方に広がる月山・羽黒山・湯殿山の総称で
ある。修験道を中心とした山岳信仰の場として現在も多くの修験者、参拝者を集めている。
出羽三山は、近代以降に使われるようになった用語である。かつては「羽州三山」、「奥三山」、
「羽黒三山(天台宗系)」、「湯殿三山(真言宗系)」と呼ばれていた。三山それぞれの山頂に神社
があり、これらを総称して出羽三山神社という。宗教法人としての名称は「月山神社出羽神社湯殿山
神社(出羽三山神社)」である。三山のうち、羽黒山には3社の神を併せて祀る三神合祭殿と、宗教
法人の社務所(鶴岡市羽黒町手向字手向7番地)とがある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E7%BE%BD%E4%B8%89%E5%B1%B1
●熊野三山も出羽三山も、もともと修験道の聖地として知られた存在なのであって、本来、そこは神仏混淆の聖地でもあった。そういう意味では大和三山も、もともとはそういう信仰の山であったことが判る。
●ちなみに、ウィキペディアフリー百科事典が案内する修験道は、次の通り。
修験道
修験道(しゅげんどう)は、山へ籠もって厳しい修行を行うことにより、悟りを得ることを目的と
する日本古来の山岳信仰が仏教に取り入れられた日本独特の混淆宗教である。修験宗ともいう。修験
道の実践者を修験者または山伏という。
【歴史】
修験道は、奈良時代に役小角(役行者)が創始したとされるが、役小角は伝説的な人物なので開祖
に関する史実は不詳である。役小角は終生を在家のまま通したとの伝承から、開祖の遺風に拠って在
家主義を貫いている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E9%A8%93%E9%81%93
●こういう説明がまかり通っていること自体が問題である。上記説明には、
・日本古来の山岳信仰が仏教に取り入れられた日本独特の混淆宗教
などと、まことしやかにあるけれども、そんなことは無い。日本に中国から仏教が伝来した時、すでに仏教は神仏混淆の状態であったことは中国の仏教聖地を訪れれば、誰にでも納得されることである。
●修験道の歴史は古い。同じく上記説明には、
・修験道は、奈良時代に役小角(役行者)が創始したとされる
とあるけれども、役小角は「役行者」であって、修験道の創始者には当たらない。
●第一、「役行者」がどういう意味であるかも理解しないで、役小角を語ること自体がおかしい。「役行者」とは、吉野山で修行する人の謂いである。つまり、吉野山で修行する菩薩であれば、皆「役行者」なのである。
◎その吉野山は何処か。意外に、多くの人が吉野山が何処であるかを理解していないことに驚く。ちなみに、ウィキペディアフリー百科事典が案内する吉野山は、次の通り。
吉野山
吉野山(よしのやま)は奈良県の中央部・吉野郡吉野町にある吉野川(紀の川)南岸から大峰山脈
へと南北に続く約8キロメートルに及ぶ尾根続きの山稜の総称、または金峯山寺を中心とした社寺が
点在する地域の広域地名である。
古くから花の名所として知られており、その中でも特に桜は有名で、かつては豊臣秀吉が花見に来
た事がある(後述)。現代でも桜が咲く季節になると花見の観光客で賑わう。地域ごとに下千本(し
もせんぼん)、中千本(なかせんぼん)、上千本(かみせんぼん)、奥千本(おくせんぼん)と呼ば
れている。
1924年(大正13年)12月には国の名勝・史跡に指定され、1936年(昭和11年)2月 には吉野熊野国
立公園に指定された。また2004年(平成16年)7月には吉野山・高野山から熊野にかけての霊場と参
詣道が『紀伊山地の霊場と参詣道』としてユネスコの世界遺産に登録された。1990年(平成2年)に
は日本さくら名所100選に選定された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E9%87%8E%E5%B1%B1
◎ここには、吉野山が本来どういうものであるかがまるで説明されていない。そのことにまず驚く。一般には、、吉野山と言えば、第一に修験道の聖地としての存在ではないか。それが吉野山の生命線だろう。そのことが一言も無い。それでは吉野山の説明にはならない。
◎それに、吉野山には山上山下の考え方がある。山上は山上ケ岳の大峰山寺を指し、山下は金峯山寺を意味する。その両方が吉野山であって、山上だけでは吉野山では無いし、山下だけでも吉野山とは言わない。ここには一切、そういう説明が無い。
◎現在では、大峰山寺と金峯山寺とは、まるで別の寺みたいな扱いになっている。それほど、吉野山は本来の信仰を見失っていると言えよう。もっとも、現代は世も末、末法の時代であるから、仕方の無いことかも知れない。
◎その吉野山の信仰の中心に位置するのが大峰三山である。もっとも、吉野山も大峰山でも、現在は完全に大峰三山信仰を見失っている。本来、大峰三山は日向国に存在した。もちろん、現在でも、それは存在する。
◎大峰三山が存在するのは、鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島である。硫黄島三山がそれである。
・硫黄岳(703、7叩
・稲村岳(238叩
・矢筈岳(349叩
◎その硫黄島三山を吉野山=大峰山へ勧請したのが大峰三山である。
・大峰山(山上ケ岳:1719叩
・稲村ケ岳(1726叩
・大天井ケ岳(1438叩
◎吉野山=大峰山を理解することはそれほど簡単なことではない。相当のエネルギーを使わないと理解できない。本ブログでは、そのために随分苦労して来た。吉野山関係ものだけでも、次のようになる。
・書庫「吉野山の正体」:29個のブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/389714.html?m=l&p=1
・書庫「熊野から天川村・吉野・国中への旅」:17個のブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1177040.html?m=l&p=1
・書庫「吉野紀行」:28個のブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1177086.html?m=l&p=1
・書庫「奥駈道を歩く(吉野から弥山まで)」:33個のブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1201609.html?m=l&p=1
◎それ以上のブログ数が日向国にも存在する。それはもう略するしかない。このように考えると、修験道の始原は日向国だとするしかない。それも決して日本オリジナルでも無い。神仏混淆の形態で中国から移入されたものであることが判る。
◎そんな話は聞いたことがないとおっしゃるに違いない。私だって聞いたことが無い。しかし、中国四大仏教名山(五台山、九華山、普陀山、峨眉山)や中国五岳(東岳泰山・南岳衡山・中岳嵩山・西岳華山・北岳恒山)、廬山などへ参詣をしてみると、中国ですでに仏教は完全に神仏混淆の形態で存在することを理解する。それがそのままの形で日本へ移入されたことが判る。
◎だから、上記の修験道や吉野山の説明は、まるで違うものであることが判る。日本へ移入された仏教文化が最初に開花したのが硫黄島なのである。そこに存在するのが硫黄島三山である。奈良県の吉野山=大峰山へ勧請されたのが大峰三山となっている。
◎吉野山を掘り下げると、こういうことが判る。現代の修験道や大峰信仰、吉野信仰は、まるでそういうことを見失っている。自分たちの信仰が本来どういうものであったか。せめてそれくらいは理解したい。そういう意味で、日本仏教の始原を知ろうと思えば、鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島へ出掛けるしかないのである。そこには大峰山寺で最も大事にされている湧出岩がどういうものであるかを知ることが出来る。湧出岩を吉野山=大峰山で説明することは、誰にもできない。