○劉長卿については、以前すでに「岳陽樓」詩を案内している。
・書庫「岳陽・武昌」:ブログ『岳陽樓』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/38072902.html
○劉長卿について、中国の検索エンジン百度の百度百科の『人物简介』が、
刘长卿是由盛唐向中唐过渡时期的一位杰出诗人。
と載せるほどの詩人である。
○劉長卿の「雨中過員稷巴陵山居贈別」詩の原文、書き下し文、私訳は、次の通り。
【原文】
雨中過員稷巴陵山居贈別 劉長卿
憐君洞庭上
白髪向人垂
積雨悲幽獨
長江對別離
牛羊歸故道
猿鳥聚寒枝
明發遙相望
雲山不可知
【書き下し文】
雨中、員稷の巴陵山居を過ぐるに贈別す 劉長卿
君を憐れむ、洞庭の上、
白髪は、人の向に垂る。
積む雨は、幽獨の悲しみ、
長江の別離に對す。
牛羊は故道に歸り、
猿鳥は寒枝に聚まる。
明發、遙かに相望むを、
雲山は知るべからず。
【我が儘勝手な私訳】
雨の中、員稷が私の住む巴陵の山居に立ち寄った際、贈った送別の詩
私は知友、員稷君をこの洞庭湖の畔で見送ることが何とも寂しく、悲しい。
君は、もう十分年老いて、白髪が顔にまで垂れているのが見えると言うのに。
降り止まない雨は、一人で君がこれから旅することを悲しんでいるかのようだし、
滔々と流れて止まない長江を眺めながら、このように別れることが何とも寂しい。
牛や羊だって、いつも歩き慣れた道を通って帰ると言うのに、
猿や鳥だって、寒々とした樹上に皆で集まって過ごすと言うのに。
朝早く旅立つ君を見送って、君と私が何時までもお互いを確認し合おうとする、
そういうことをまるで知らない雲や山が二人を邪魔して隠してしまうのが悲しい。
○劉長卿「岳陽樓」詩が、ひたすら岳陽樓から見える情景を描写に努めていたのに対し、この「雨中過員稷巴陵山居贈別」詩で、劉長卿が、ただ離別の悲しみを懸命に表現しようとしていることがよく伝わってくる。劉長卿の詩作がどういうものかが窺えて楽しい。
○ここに表現される巴陵、岳陽樓は茫洋とした寂しい風景の中に存在するし、目の前に広がる美しい洞庭湖の風景にしたところで、何も劉長卿を慰めてくれるものでもない。
○普通に目にする牛羊猿鳥にしたところで、この日の劉長卿には、
牛羊歸故道 牛羊は故道に歸り、
猿鳥聚寒枝 猿鳥は寒枝に聚まる。
ものとしてしか、認識されない。
○圧巻は、何と言っても。やはり、最後の尾聯であろう。
明發遙相望 明發、遙かに相望むを、
雲山不可知 雲山は知るべからず。
この絶唱は、空前絶後、何とも素晴らしい。
○「万葉集」巻第二:相聞・133歌に、『柿本朝臣人麻呂従石見國別妻上来時歌二首并短歌』がある。
柿本朝臣人麻呂、石見の国より妻に別れて上り来る時の歌二首 并せて短歌
石見(いはみ)の海 角(つの)の浦廻(うらみ)を 浦(うら)なしと 人こそ見らめ 潟(かた)なしと
人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも 鯨魚(いさな)取り 海辺を
指して 和田津(にきたづ)の 荒礒(ありそ)の上に か青なる 玉藻(たまも)沖つ藻 朝羽(あさは)
振る 風こそ寄せめ 夕羽(ゆうは)振る 波こそ来寄れ 波の共(むた) か寄りかく寄る 玉藻なす
寄り寝(ね)し妹(いも)を 露霜の 置きてし来れば この道の 八十隈(やそくま)ごとに 万(よろ
ず)たび かへり見すれど いや遠(とほ)に 里は放(さか)りぬ いや高に 山も越え来ぬ 夏草の
思ひ萎(しな)えて 偲(しの)ふらむ 妹が門(かど)見む 靡(なび)けこの山
反歌二首
石見のや高角山(たかつのやま)の木(こ)の際(ま)より我が振る袖を妹見つらむか
小竹(ささ)の葉はみ山もさやにさやげども我は妹思ふ別れ来ぬれば
○以前から、この和歌の表現がひどく気になっていた。
この道の 八十隈(やそくま)ごとに
万(よろず)たび かへり見すれど
いや遠(とほ)に 里は放(さか)りぬ
いや高に 山も越え来ぬ
夏草の 思ひ萎(しな)えて
偲(しの)ふらむ 妹が門(かど)見む 靡(なび)けこの山
○こういう表現は、尋常ではない。劉長卿「雨中過員稷巴陵山居贈別」詩の尾聯、
明發遙相望 明發、遙かに相望むを、
雲山不可知 雲山は知るべからず。
と、柿本朝臣人麻呂の「従石見國別妻上来時歌」の最後、
夏草の 思ひ萎(しな)えて
偲(しの)ふらむ 妹が門(かど)見む 靡(なび)けこの山
とは、見事に一致する。
○しかし、柿本人麻呂(660ころ~720ころ)と劉長卿(726ころ~786ころ)とが影響し合う可能性は、極めて低い。おそらく玄言詩あたりに、その起源があるような気がしてならないが、今のところ未見と言うしかない。