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神代三山陵の先坣僑位について

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○『神代三山陵の先坣僑位』については、本ブログではこれまで何度も書いている。書庫「肝属町の三岳参り」でも、2016年6月10日に書いている。
  ・書庫「肝属町の三岳参り」:ブログ『神代三山陵の先坣僑位』
  https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/40406401.html

○改めて、ここで書くことも無いような気もするけれども、『国見山が高屋山上陵であること』から『甫与志岳が可愛山陵であること』と書き続け、『天皇家の故郷』と来たら、どうしても、『神代三山陵の先坣僑位』に触れないわけにはいかない。

○最初に、神代三山陵から始めたい。神代三山陵とは、天孫降臨から初代天皇である神武天皇に至る三代の尊の御陵を言う。前回触れたように、神代三山陵の所在地こそが天皇家の故郷なのである。もちろん、そこが神武天皇の故郷であり、お船出の地でもあるわけである。ある意味、日向国の中心でもあった。

○「古事記」や「日本書紀」を読むと判るのだが、日向神話はほとんど神代三代の話に終始している。本当に日向神話を理解しようと思えば、まずは神代三山陵が何処に存在したかを突き止めることだろう。そういう意識が現代の学者先生にはまるで無い。江戸時代の国学者、白尾國柱には、そういう感覚がしっかりあることに驚く。

○これも前回案内しているが、真実の神代三山陵は、次のようになる。
  初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県肝属町内之浦甫与志岳(叶岳)
  二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山
  三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵

○それに対して、現在、宮内庁が神代三山陵としているのは、次のようなところである。
  初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県薩摩川内市の新田神社
  二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県霧島市溝辺町麓の高屋山陵
  三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵

○本ブログで幾ら声高に真実の神代三山陵が上記のものだと叫んだところで、話はそれこそ神代の話なのだから、今更、現代で証明のしようが無い。誰もがそう思う。私もそう思っていた。

○ところが世の中は広い。しっかり真実の神代三山陵が何であるかを証明する方法が存在することに気付いて驚いた。神代のことが現代で証明できるのである。それこそ驚き以外の何物でもない。それが神代三山陵の先坣僑位である。

●まず、神代三山陵を知る人が少ないはずである。まして、先坣僑位など、現代では、完全な死語だろう。自分の祖先を祀るために、移住先にお墓を建てる。それが先坣僑位である。

●つまり、日向国に居た人々が大和国へ移住した。その大和国で自分の祖先を祀るためにお墓を建てた。それが神代三山陵の先坣僑位である。そんな話など、聞いたことが無いとおっしゃるに違いない。私だって聞いたことが無い。しかし、神代三山陵を丹念に研究すると、神代三山陵の先坣僑位に辿り着く。

●そのためには、まず、日向国の神代三山陵の研究から始めなくてはならない。本ブログでは、以下のブログに書いている。
  ・書庫「神代三山陵の研究」:16個のブログ
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/144322.html?m=l&p=1

●私の場合、その後、吉野山の研究へと移った。それは「日本書紀」の持統天皇紀が九年間に31回もの吉野御幸を繰り返していることが気になったからである。この数は尋常ではない。何故、持統天皇はこれ程吉野山に執着するのだろうか。そういう素朴な疑問が最初であった。

●何回か吉野詣でを繰り返すうちに、辿り着いた結論は、持統天皇の吉野御幸は祖霊信仰に基づくものではないかと言うことであった。持統天皇の祖霊信仰が何を意味するかは、最初、皆目不明であった。そのうち、辿り着いたのが吉野山は可愛山陵では無いかと言うことであった。

●それなら、近くに高屋山陵も存在するはずだ。そう考えるのが自然である。そうすれば、高屋山が高野山であることは、誰でも思い付く。高野山の歴史を紐解くと、空海が高野山を開く前から、高野山が神聖な場所であったことも判った。高屋山が高野山である可能性は高い。

●最後に、吾平山陵が残った。そんなものは吉野山や高野山近辺に全く存在しない。と言うことは、吉野山は可愛山陵であることや、高野山が高屋山であることも単なる私の思い過ごしと言うことになる。たぶん、そういうことだろうと思っていた。

●しかし、世の中、捨てたものではない。しっかり、吾平山陵が出現したのに、驚いた。それが熊野本宮である。熊野本宮と吾平山陵とは、まるで無関係だと誰もが思う。しかし、そうではない。熊野本宮と吾平山陵の両方を理解すれば、それが同じであることに気付く。

●どういうことかと言うと、もともと吾平山陵は山陵では無いのである。吾平山陵は山間の河合なのである。それは熊野本宮も全く同じである。現在、吾平と当て字をしているから、判り難いけれども、本当は「吾平」ではなく「姶良」の方が語源に近い。

●熊野本宮も現在は、山間に鎮座ましますけれども、本来、熊野本宮が鎮座ましましたのは大齋原(おおゆのはら)と言って、熊野川と音無川の河合の河原だったのである。熊野本宮は河合に存在してこそ熊野本宮なのである。現在のように丘上では、熊野本宮とは呼べない。

●つまり、熊野本宮のご神体が大齋原(おおゆのはら)なのである。ご神体を捨てては神社は浮かばれまい。そういうことを熊野本宮は理解していないように、私には感じられてならない。

●ついでに言うと、熊野地名も、熊野本宮辺りのものではない。熊野地名も、本来、日向国のものである。

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